公」と芸術ーあいちトリエンナーレが残したものー 林立騎

 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」ではアートと表現の自由、公権力による関与が問題となった。出品作家や学芸員らに見解を寄せてもらった。

県文化振興会が主催した「芸能の継承と沖縄の文化振興」シンポジウム。林立騎さんは主催者代表で登壇した=3月19日、県立図書館(同振興会提供)

林立騎さん 1982年新潟県生まれ。前沖縄県文化振興会チーフプログラムオフィサー。現在、ドイツ・フランクフルト市の公立劇場キュンストラーハウス・ムーゾントゥルム勤務(ドラマトゥルク)、文化庁新進芸術家海外研修生

県文化振興会が主催した「芸能の継承と沖縄の文化振興」シンポジウム。林立騎さんは主催者代表で登壇した=3月19日、県立図書館(同振興会提供) 林立騎さん 1982年新潟県生まれ。前沖縄県文化振興会チーフプログラムオフィサー。現在、ドイツ・フランクフルト市の公立劇場キュンストラーハウス・ムーゾントゥルム勤務(ドラマトゥルク)、文化庁新進芸術家海外研修生
 はやし・たつき 1982年新潟県生まれ。前沖縄県文化振興会チーフプログラムオフィサー。現在、ドイツ・フランクフルト市の公立劇場キュンストラーハウス・ムーゾントゥルム勤務(ドラマトゥルク)、文化庁新進芸術家海外研修生

 沖縄の文化芸術支援の経験から、私たちの未来を変えるのは小さな個人の意思だと知った。地域の芸能を子どもたちに伝えたい、各家庭に眠る8ミリフィルムが映す歴史を共有したい、沖縄の書物をアジアに発信したい、たった一人やごくわずかな人の思いが、少しずつ別の個人に伝わり、広がる。上から押し付けられるのではなく、日々の生活から生まれた切実な思い、未来への願いが、「このままではいけない」と問いを投げかけ、人を動かし、地域を変える。

 そうした文化芸術の価値が、今、危機に瀕(ひん)している。

 文化庁が、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」への補助金を採択後に「不交付」とした。事業の運営を脅かす事実が申告されていなかったという手続き上の不備が理由とされたが、芸術祭の一企画「表現の不自由展・その後」がテロ予告により閉鎖に追い込まれることを事前に認識できたはずはなかった。理由は便宜的なもので、政府にとって不都合な表現への介入と受け止めざるをえない。不交付を支持した専門家は皆無で、法や文化政策の専門的見解さえ無視する強引な決定だった。展覧会が会期末までの一週間、安全な再開を実現したにもかかわらず、不交付が覆らないことからも、政府による表現の自由への介入は明らかだ。

 政治の介入を許す欠陥が文化庁にあるなら、不交付撤回を進めるとともに、公正な文化行政制度の確立を徹底すべきところ、文化庁所管の「日本芸術文化振興会」までもが助成金交付要綱の改定を行い、「公益性の観点から助成金の交付内定が不適当と認められる場合」には常に事後的に交付を取り消すことができるとした。しかも「公益性」の定義はなされていない。不透明な介入が起こりうる状況はさらに深刻化している。

 「公益」を誰が判断するのだろうか。今日数万人を楽しませる表現でも、社会をよくするとは限らない。過激で前例がない活動も、中長期的に変化をもたらすことがある。言い訳や異動で責任を逃れる政治家や公務員と異なり、文化芸術に携わる個々人は自らの行動に責任を負う。政治や行政は文化芸術の本当の「公益性」を専門家以上に評価する役割を果たしえない。

 どのような文化芸術が「おおやけ」によって保障され、私たちのどのような利益になるのか。今回の危機は、歴史に向き合う個人の声や思いが政治家や市民から非難を受け、政府の見解や「普通ではない」ことを理由に押しつぶされつつあることだ。しかし政治ができないことを個人が始めることこそ文化芸術の価値である。

 公金ではなく私費でやればいいという非難もあるが、「わたし」の声を排除する「おおやけ」は本末転倒だ。「おおやけ」はあまたの「わたし」から成り、「わたし」が歴史に向き合う中で感じる痛みや苦しみ、そこから生まれる声は、社会の現在地を確認し、町や地域の未来、よりよい国や世界のために不可欠だ。解釈の分かれる「政治的テーマ」もまた、政治主導で議論できないからこそ、文化芸術の支援を通じて、多様な表現方法によって問い続け、考え続けねばならないのである。

 表現を受容する鑑賞者もまた「わたし」であり、文化芸術にはわかりにくいものや心を引き裂くものもある。しかし個人が内面的に引き裂かれる経験こそ、多様な生き方や考え方に敬意を払い、社会全体が分断されずに話を続けるための基盤ではないか。能や文楽や歌舞伎が示すように、日本の文化芸術の伝統も本来、歴史の中の犠牲者の苦しみやうらみを表現し、政治が取り上げない小さな声を社会に伝え、共有する営みだった。

 作品への苦情や、多様な「わたし」による批判も社会には不可欠だ。しかし表現にも批判にも限界がある。「公益性」や「反日」などの定義のない言葉や、「ヘイト」という言葉の誤った使用は、多様な声の交わる「おおやけ」の基準にならない。ヘイトスピーチは、出自・宗教・性別等を理由にした差別を防ぎ、特定の人々を社会から排除せず、人権を保障するために言論の限界を規定する概念だ。「日本ヘイト」や「天皇ヘイト」を掲げる前に、日本と日本国民が特定の人々を差別せず、人権を制約していないかを省みて、天皇および皇族の人権の問題や、日本に残る無数の「犠牲の構造」にこそまずは目を向け、改善すべきだろう。

 今回のあいちトリエンナーレのように、中央省庁が動き、全国的に報道され、いわば「中心」になった場所だけに関心が向くのでは不十分だ。中央でしか物事が動かないこと自体が構造的問題の一部である。痛みや苦しみは至るところにある。その声を未来へつなげる「おおやけ」の営みとしての文化芸術は市場原理とは異なる価値をもち、格差と分断の現代だからこそ役割は大きい。

 それぞれの土地で芸術が生む小さな声を受け止めて未来につなげる政治を支持し、行政は専門家の独立した第三者機関等の仕組みを通じて公正な制度へ促さなければならない。健全な政治と行政を守ることは私たち市民の責務であり、その新しい回路が必要とされている。