那覇市を代表するアーケード商店街である「平和通り」。戦後の混迷の中で、露店や青空市から始まった那覇の商業復興の象徴である通りである。かつては市民にとって、日々の購買の中心であったこの場所も、一時期客足が落ち込んだ時期を経て、近年は個性的なお店が登場し、地元客・観光客で再度盛り上がりを見せている。そんな平和通りの栄枯盛衰を那覇市平和通り商店街振興組合の崎濱敬子さん、金城美重子さん、矢野弘子さんと振り返った。
【生活の中心だった平和通り】
一口に「平和通り」といっても、地元の人以外は実際の平和通りとその周辺までをも含めて平和通りとして認識している人も多いだろう。実際には旧三越(現在のHAPiNAHA)から入って壺屋に抜けるまでが平和通りであり、その周辺にある合計12の通りで一帯のにぎわいが作られている。
「かつての平和通りやその周辺は、買い物は全てここで、という場所でした。今のようにスーパーがありませんでしたから。食料品・日用品・ファッションも全部マチヤーグヮー(市場)でしたね。とにかく商業の中心といえば、牧志・壺屋というくらいに」
─生活を営む上で欠かせない存在だったわけですが、変遷を感じた出来事はありましたか?
「1980年頃に、沖映通りの大型ショッピングセンターの建設計画があった時には、客足が遠のくのではないかとの懸念から、通り会全体で反対をしていたんです。でも結果的に、食品を扱うお店は少し売り上げが落ちたようですが、そこまで影響はなかったです。この時の対応策として、補助金や組合でお金を出し合って、全天候型のアーケード商店街にしようという働きかけがありました。これを契機に発足されたのが現在の『那覇市平和通り商店街振興組合』です」
─大型店舗の地域への進出がかえって、平和通りの利便性向上や人の流動をもたらしたわけですね
「そうですね、本格的に客足が遠のいたと感じるようになったのは1993年、小禄地区への大型ショッピングセンターの出店でした。ここから地元客だけでなく新しい層も取り込んでいかなければ、と危機感を持つようになりました」
【時代とともに移りゆく商圏】
1990年代に入ってから、平和通りとその周辺の通りでは、新規の客層を意識した町づくりを進めていく。今でこそ日本に根付いたハロウィーンイベントだが、平和通りでは約20年前から開催し、家族連れに楽しんでもらおうと試みた。牧志公設市場の2階では購入した魚を調理できる仕組みを整え、観光客に喜んでもらおうと努力した。
しかし、その後も続々と北谷の美浜地区や那覇新都心にも大型ショッピングセンターができ、地元客、特に若い人が足を運ぶ商圏が確実に変わっていった。
─最も客足が低迷していた時期はいつごろでしたか?
「2000年前後でしょうか。国際ショッピングセンター、山形屋、マキシーなどといったシンボル的なビルが徐々になくなったり、閉店したりしていきました。また、レンタルビデオが普及し、国際通りにあった映画館に足を運ばなくなったのも影響しました」
集客が比例関係にある国際通りも、商圏の変化や郊外のシネマコンプレックスの登場で“来る理由”というものが無くなってしまったのだった。
【朝ドラ「ちゅらさん」ブーム到来】
折しも、低迷する地元の客足と交差するように、2001年上半期に放送されたNHKの朝ドラ「ちゅらさん」の影響で空前の沖縄ブームが到来する。
「ちゅらさんブームの時には平和通りもお土産屋を中心に盛り上がりました。県外での物産展もよく出店しましたが、毎回大にぎわいで。もうこの時期には平和通りやその周辺の通りはお土産を扱うお店が中心になりました」
筆者の肌感覚ながら、すでにこの時には観光客の方が、地元客を上回っていたのではないかと思う。