那覇市の農連市場の取り壊しが決まり、仮設店舗の建設工事が始まった8月初旬。日付が変わったころから僕は農連市場にいた。午前1時40分、金城初子さん(82)が契約している送迎車から降りてきた。まだ市場に人はほとんどいない。農連で働く人の中でも早い出勤だ。
初子さんは農連市場に来てから63年がたつ。農連が開設した時から店に立つのはもう、初子さんだけになってしまった。1933年生まれ。農連市場が出来た20歳の時から、ここで働く。松山小学校で4年生まで勉強したが、「そのあとは戦争で全部訓練になった」。那覇は1944年の十・十空襲で焼け野原になり、沖縄本島北部の“やんばる”へ逃げた。勉強どころではなかった。
沖縄戦が終わり、那覇に戻ってきた初子さんは、食料を求めて、祖母と一緒に、牧志の公設市場へ買い物に行った。自宅から公設市場に向かう途中、今の農連がある那覇市樋川を通った。ある日、農連の前を通ると市場が開くことを祝う「落成式」が行われていた。アドバルーンが高々と上がるこの風景を、初子さんは祖母と見ていたのだろうか。
農連市場は、農家が野菜などを直に販売できる「相対売り」の場所でもあった。戦後、売り子としても働く祖母の手伝いをしていた初子さんは、落成式の翌日には農連に来ることになったという。
「はじめは豆腐を売っていた。少しずつ慣れてきて野菜を売り始めて、5年くらい経ってやっと繁盛した。それまではお客さんが来なくて、そのときの市場長もいろいろと呼びかけたみたいよ」。売り子も市場も試行錯誤を繰り返したのだろう。