沖縄の基地問題は本土側のメディアでどう位置づけられ、読者はどのように受け止めているのだろうか。基地問題が中央でも大きく取り上げられ、沖縄の新聞記事が大手ニュースサイトにも載るようになった。理性的な意見も寄せられるが、読むに耐えないようなコメントも多く散見される。これはどういう心理によるものなのか。沖縄出身で広島修道大学で教授を務める野村浩也氏(社会学)に聞いた。【沖縄タイムス+プラス編集部】  ―メディア側が政権の意向を忖度し、報道や発言を自制しているのではという指摘もあります。

 野村 ジャーナリズムの責務は権力の監視です。政権の意向を忖度するなんて、自殺行為であると同時に、国民の知る権利に敵対する行為であり、意識しているかどうかにかかわらず、読者に対する裏切りです。世界のジャーナリズムの基準からすると、安倍政権になってからの日本のメディア状況の異常さは「ファシズム前夜」と言っても過言ではありません。政権を忖度する一部マス・メディアは、もはや権力監視機関とは言えません。政府の広報機関と考えるべきでしょう。したがって、他の報道機関が監視しなければなりません。
 実際、政府と一体かのように「辺野古が唯一の選択肢」を検証せずに繰り返すマス・メディアが存在します。では、なぜ彼/彼女らは、まるで思考停止したかのように他の選択肢を考えようとしないのでしょうか。これには、ジョージ・バーナード・ショーの説明が参考になります。
 「ポールに金を払うためにピーターから金を奪う政府は、常にポールの支持を当てにできる」
 これは、国民の一部を犠牲にして成立する政治システムのことを言っています。日本国政府は、「ピーターから金を奪う」かのごとく、国民人口の1%にすぎない沖縄人に約74%もの在日米軍基地負担を押しつけて安全を奪っています。「ポールに金を払うために」と同様に、日本人に安全を提供するために沖縄人から安全を奪っているのです。つまり、人口の99%を占める日本人は、前に述べたように、沖縄人を犠牲にして日米安保の負担から逃れているのです。こうして、ショーの言う政府が「常にポールの支持を当てにできる」ように、日本国政府は、常に日本人の支持を当てにできるのです。この日本人には、当然、マスコミ人も含まれますから、政府を支持することがマスコミ人自身の利益にもなるわけです。
 ここで強調しておきたいのは、「ピーター」にとっての権力はけっして政府だけではないということです。社会学的には、「ポール」もまた権力以外の何ものでもありません。すなわち、一般の日本人も、沖縄人に対する権力なのです。したがって、沖縄2紙は、政府のみならず日本のマスコミに対する監視を通して日本人をも監視する必要があります。けっして忖度してはなりません。

 ―十分な勉強や検証もせずに、ヘイト・スピーチ的な書き込みを鵜呑みにする人がいます。沖縄県内の大学生でさえそういう現象が起きていると聞きます。

 野村 もちろん、ヘイト・スピーチ的な書き込みも権力であり、当然、監視の対象です。その分析も権力監視の方法ですし、分析結果を定期的に紙面やHPで公開し、政府政策の是非と併せて議論を喚起すべきです。
 また、そういった書き込みを鵜呑みにする大学生がいること自体も、分析を必要とする構造的な問題です。新聞だけの責任ではありませんし、嘆いてばかりでは問題解決も望めません。そもそも在日米軍基地問題や日米安保の情報は、高校までの教科書にはほとんど出てきません。ですから、授業でもなかなか取り上げられません。つまり、学校教育の構造上、高校まででは学べないと言っても過言ではないのです。沖縄も例外ではありません。事実上教員の個人的努力に委ねられており、構造的な限界があるからです。それに、テレビとネットだけの情報環境では安保や基地問題はけっしてわかりません。沖縄に生まれて住んでいる人であろうとも、沖縄の新聞を読まないかぎり、基地問題を十分に理解することはできないのです。したがって、ネット情報を鵜呑みにする沖縄の大学生がいるのも何ら不思議なことではありません。ただし、せっかく大学に進学したのですから、学生はこれから勉強すればよいのです。
 その点、大学教員の責任は重大です。沖縄の大学教員は、授業を通して沖縄の新聞を読む習慣を学生に身につけさせなければなりません。そうしないと、十分な勉強や検証もせずにネットの書き込みを鵜呑みする傾向に対処できません。

 ―こうした現象はすべてインターネットの普及以降に顕在化してきたと思われます。誰もが意見を発信でき、誰でもメディアになれる時代に、沖縄問題の報道の在り方はどうあるべきとお考えでしょうか。

 野村 インターネットの普及はデマや偽情報の発信も容易にしました。これは重大な変化です。なぜなら、正確な報道の価値がより高まったことを意味するからです。このことと直接関連する問題を、先ほど紹介した佐藤優さんの論考から引用します。
 「(全国紙の記者は)東京の官邸、防衛省、外務省を回れば辺野古の記事ができると思っている」(「佐藤優のウチナー評論〈366〉」『琉球新報』2015年1月31日) 安保は首相官邸や防衛省や外務省で起きているのではありません。沖縄で起きているのです。安保の現場は東京ではありません。沖縄です。74%もの在日米軍基地を沖縄に強制的に集中させた結果、安保に起因する問題の大多数が沖縄で発生せざるをえなくなっているからです。ところが、この基本中の基本を大手全国メディアはまったく理解していません。
 安保の現場を知らずして安保を語ることはできません。したがって、沖縄を知らずして安保を語ることはできません。にもかかわらず、大手全国メディアは、沖縄をまともに取材しようとしません。新聞社もテレビ局も通信社もごくわずかな記者しか沖縄に配置していません。その結果、日本のマス・メディアにどんなに目を凝らしても日米安保について満足に知ることができない状況となっています。日本の新聞やテレビを見ても日米安保はわかりません。日米安保を深く理解しようと思えば、世界的にみても、沖縄の新聞2紙を読む以外に方法はありません。その意味で、日米安保をもっともよく理解しているのは沖縄の新聞2紙の記者であり読者です。たとえ地球の裏側にいようとも。 つまり、米軍基地問題は、けっして「沖縄の基地問題」ではないのです。「日本の基地問題」です。それは、「日米安保の問題」だからであり、「安保の現場の問題」だからです。「沖縄問題」ではなく、「日本問題」なのです。地方の問題ではなく、全国の問題です。けっしてローカルニュースではなく全国ニュースであって、首相官邸や防衛省以上に毎日報道しなければならないニュースです。
 ところが、全国メディアの報道人自身が一地方の問題かのごとく錯覚しているから、安保の現場たる沖縄をまともに取材したためしがありません。安保の現場を取材しなければ安保の報道は不可能です。安保を報道しなければ、権力を監視することもできません。つまり、沖縄を取材しないかぎり、安保の正確な報道もできなければ、日本国政府の安保政策を監視することもできません。したがって、安保に関するかぎり、大手マス・メディアは、報道機関の責務を果たしていないと言わざるをえません。
 安保の現場をろく取材してこなかった結果、「もうひとつの安保問題」を引き起しているのが日本のマスコミだといえるでしょう。つまり、安保の実質的な報道をしないという問題です。いいかえれば、「基地問題を報道しないという基地問題」です。これは、マス・メディア自身が作り出した新たな基地問題であり、「もうひとつの基地問題」です。

 ―沖縄の未来図を描くとき、基地をどうするかは不可欠な議論だと思われます。一方で、少なくとも若い世代には、基地問題を友人との会話でも話すことの「怖さ」があるようです。オープンに議論するための方策はあるでしょうか。

 野村 沖縄のみならず日本の未来図を描くときに不可欠なのが基地の県外移設を議論し、広く報道することです。今ではすっかり沖縄の多数意見となった感のある基地県外移設論についても、かつては話すことの「怖さ」が強烈にありました。沖縄においてすら圧倒的少数派だったし、日本人からも沖縄人からも攻撃されてきたからです。
 そんな県外移設論が、今や沖縄県知事の選挙公約にまでなったのです。それは、多くの沖縄人が県外移設を主張し続けてきた結果です。主張することによって、怖さを克服したのです。しかも、基地関連交付金、軍用地主や基地従業員といった基地で収入を得ている人々が厳然と存在し、基地問題を友人との会話で話すことにさえ怖さやためらいがあったにもかかわらず、それを克服して強くなったのです。
 そういった沖縄人ひとりひとりの努力が、鳩山元首相に「最低でも県外移設」と言わせ、オスプレイ強行配備に「建白書」をもって「オール沖縄」で立ち上がることを可能にし、辺野古新基地建設に反対する沖縄県知事、名護市長、衆議院議員を生み出したのです。さらに、最近の「知事・首相会談」および「知事・官房長官会談」における翁長雄志沖縄県知事の希代の名演説も、県外移設の主張を通じて強くなったすべての沖縄人の努力が原動力になったと言っても過言ではありません。この経験は、それこそオープンな議論を通じて、若い世代に伝えるべき沖縄人の財産です。