平成18年度に発達障害児をも対象とした特別支援教育が始まって10年近くなります。以前だと「指導」の対象になっていたような発達障害や「発達が気になる」と言われる子ども達を、「支援(配慮)」の対象として捉え直そう、そして彼らの困りや生きづらさに寄り添えるような環境をつくろうと言われてきた10年だと思うのです。「早期療育」や「特性の理解」、そして「特性にあった支援・配慮」という言葉が、教育や福祉の現場に登場してきました。

 10年以上この分野に関わっていると、当時10歳前後だった子が今は成人していたり、中高生だった子ども達は20代中後半から30歳近くになっているわけです。先日も、当時小学校3年生だった女の子が、専門学校を卒業して4月から就職するということでお母さんと挨拶に来てくれました。

 彼女のように、発達障害と診断されたり、「発達が気になる」といわれたりした子ども達の多くが、最終的には「一般就労」に向かっていきます。一時的に就労移行のような支援事業所に在籍することがあっても、ほとんどの子ども達は最終的に、「普通に仕事する」ことを望んで社会に旅立ちます。うまく行く子ども(若者)もいれば、残念ながら挫折を繰り返してしまう子どもも少なくありません。就学前療育から特別支援教育を通して丁寧に支援をしたはずの子ども達の中に、社会で生きていくことに頓挫してしまう子ども達もいるのです。

 「子ども期」から「大人期」をたどって来たケースを振り返ったときに、「支援」について再考することがあるのです。「特性を理解しよう」、「特性に合わせた配慮をしよう」(=「生きやすくしよう」)というだけで本当にいいのだろうかと思ってしまうのです。彼らの多くは、「特性の理解」も「配慮」もない、「普通の社会」で仕事をし、生きて行くことを選ぶのです。ここで社会の無理解を変えていこうと唱えることも大切です。一方彼らの多くはそういう(無理解な)社会で生き抜くことで、自己評価を高めていくし、高めたいと思っているようなんです。そもそも私たちも、世の中の理不尽を含めた現実と対峙していくことで、「社会人としての自信」を育んで行くと思うのです。でも、私たちは彼らにそういう「現実に向けた準備」をしてきたのだろうかと自問することがあるのです。

 ある10代後半にさしかかった男の子がアルバイトをしています。本人の「特性」のために学校でうまくいかず、小中学校通じ長い間不登校(ほとんど引きこもりに近い生活)もしました。彼を理解し支えてくれたお母さんや児童デイのおかげで、冗談も喧嘩もできる仲間ができ、学校にも少しの間行けるようになりました。今は「免許をとりたい」という一心で、お父さんが監督を務める現場でアルバイトを始めました。お父さんは、本人の「発達障害」(という診断)を否定していて、仕事では彼のことを他の従業員と同じように怒鳴って叱ります。彼はお父さんのことを、「理不尽、意味わからん」と周りに愚痴をこぼしながらも、「免許」のためにがんばっています。お母さんは、毎日叱られている彼を見て、「別のバイトしたら」と言います。彼は「うん、わかった」と言いながら、1年近く毎日休まず出勤しています。

 みなさんは彼のことをどう思いますか? 彼は無理をしているのでしょうか? 無理をさせてはいけないのでしょうか? 人が無理をして生きることは無意味だと思いますか?

 くれぐれも勘違いしないでください。根性主義の生き方や支援を提唱しようというわけではありません。ただ、私自身を振り返って、彼らの「生きづらさ」に対して「生きやすさ」を保障するのが支援だと勘違いしていなかっただろうかと自問するのです。「生きやすさ」を保ちつつ、周りの人達や自分自身に対しての安心感と信頼感を築いていくことは、とても大切なことだと思います。無理解や理不尽から生じる「生きづらさ」に潰されてしまっては、元も子もありません。しかしそれは支援の途上にあるべき目標なんだろうと思うのです。「支援」の果てには、世の中の無理解や理不尽さを含めた「生きづらさ」のなかで、どうにか生きているその人(その子)がいるべきではないでしょうか。

 教育という実践分野には、「(自分の)限界を試す」「がんばる」ことで、「成長する」「やれなかったことがやれるようになる」という実践文化(のストーリー)があると思うのです。一方、私がこれまで働いてきた(精神)医療や福祉は、その逆で「がんばらない・はげまさない」(「限界を試さない」)というアプローチが珍しくありません。「うつ病の人は励まさない」なんていうのは、この10年ほどで常識になりつつあります。「がんばって変わる」という教育の実践文化と、「(人生)がんばらない」という医療や福祉の文化には大きな違いがあります。

 この10年ほどで発達障害含めた児童生徒のメンタルヘルスの問題、それに対応すべく医療の文化が学校現場に浸透することで、教育の実践文化が揺らいでいるような気がするんです。「がんばって登校できるように働きかけたら潰れてしまった」、「励まして、指導して、変化したと思ったら中学になって悪くなっていた」…。「限界を試すこと(がんばること)で変化する」という、教育実践の支えになっていたようなストーリーが揺らいでいるような気がするのです。このコラムのサブタイトル、「教育の医療化」で表現されていることのひとつの側面ではないかと思います。

 「がんばること」「生きにくさ」(辛さ)から子ども達を守るだけでなく、それをどうやってその人(子ども)本人の糧にするのかということは、リスクも伴う難しい支援や教育の実践になると思います。同時にそれは、人が育つことのひとつの側面でもあるのかもしれません。あなたも私も、大なり小なり世の中の「生きづらさ」から逃れることはないような気がするのです。私たちが「支援」と呼んでいるのは、「生きやすさ」という甘味と「生きづらさ」という苦味が組み合わされる料理のようなものだと感じることがあるのです。甘みだけでなく、苦みやスパイスをどう効かせるかも、支援者にとっての視点のひとつかもしれません。