◆沖縄物産連合会長の宮城弘岩さん(79)

沖縄戦で亡くなった兄の名前を名簿で確認する宮城弘岩さん(左)=13日、那覇市立松城中学校

 「ああ、あった。これだよ」。沖縄物産企業連合会長の宮城弘岩さん(79)は、初めて目にする名簿に、沖縄戦で亡くなった兄・哲夫さんの名前を見つけ、声を上げた。学徒隊について調査する那覇市立松城中学校の大城邦夫教諭が今月、新たな学徒隊名簿を見つけたとの報道を受け、13日に私立開南中の名簿に記載された哲夫さんの名前を確認。自らの戦争体験を振り返り、兄への思いを語った。(社会部・國吉美香)

 名簿は、大城教諭が国立公文書館で入手し報道公開した。開南中学の名簿には未帰還者として71人分の名前や住所などが記され、その中に11歳上の哲夫さんの名前もあった。

 弘岩さんは兄や姉、弟妹を持つ6人きょうだいの次男。当時の南風原村津嘉山に住んでいたが、1944年10月の大空襲の後、母や姉らと本島北部へ避難し、終戦までを過ごした。

 高い木の上に登り、名護湾が攻撃を受けるのを遠目に見ていたことや、県系人と思われる米兵が、日本語で「出てこい」と言っていた場面を覚えている。食糧がなく水ばかりを飲んで体力がなくなり、馬につないだ綱をつかんで引きずられるように逃げたこともあった。途中、遺体の上を通り、足が腐敗した遺体にぐっとめり込む感触は今でも忘れられないという。

 終戦後は転々と住まいを変え、2、3年後に元の家にたどり着き、一家で同じ場所に家を建てた。

 父親は夕方になると、家の出入り口にあるガジュマルの木の下で、酒を片手に夜遅くまで座っていた。何も言わなかったが、弘岩さんは「兄を待っているのだ」と分かっていた。「10年ほど待ち続けていたが、兄が帰ることはなかった。かわいそうだったよ」

 遺骨も写真もなく、戦死した場所も不明。記憶にあるのは兄が弘岩さんの名前を呼んだ声だけだ。

 今回発見された資料で、初めて公的情報で名前を目にした。ただ、戦没場所など詳しいことは分からない。弘岩さんは「多くの学徒が死んでいくのは戦時の5、6月。戦争が長引かなければ死ぬこともなかった人たちだが資料が少ない。もっと詳しい資料が見つかれば」とつぶやいた。