社説

社説 [首里城再建] 歴史を学び直す機会に

2019年12月31日 09:41

 燃えるような朱色の柱、深みのある弁柄(べんがら)色の壁、風土に根ざした沖縄特有の赤瓦。

 日本と中国の建築様式を取り入れ、独自のスタイルを打ち立てた首里城正殿は、赤を基調とした沖縄最大の木造建築物だった。

 2カ月前の10月31日未明、私たちは、あの正殿が闇夜の中で燃え続け、黄金色の炎に包まれ崩れ落ちていくのを見た。龍潭側の現場で、あるいはテレビやネットの実況映像を通して。

 全面崩落した正殿をはじめ北殿、南殿など主要6棟が全焼し、約400点もの貴重な美術工芸品が被害に遭った。

 かつて味わったことのない衝撃だった。多くの人たちがマブイ(魂)を抜き取られたような喪失感を訴えた。

 この感覚はどこからくるのだろうか。

 「沖縄の人々の心のよりどころ」「沖縄のアイデンティティー」。首里城は、沖縄の苦難に満ちた歴史と独自の文化、精神性を象徴するものと受け止められている。

 多くの県民は、そのような特徴を持つ首里城が燃え尽きるのを、なすすべもなく見つめ続けた。

 私たちは無力だったのだ。

■    ■

 首里城は今回を含め、これまでに5回、焼失している。時代に翻弄(ほんろう)されてきた琉球・沖縄の歴史と同じように、激しい浮き沈みを経験した。

 決定的な影響を及ぼしたのは、明治政府による1879年の琉球併合(琉球処分)と、1945年の沖縄戦である。

 琉球王国最後の国王尚泰は、失意のうちに居城を後にし、中城(なかぐすく)御殿(うどぅん)に移り住んだ。

 接収された首里城は陸軍省所管となり、熊本鎮台沖縄分遣隊が使用することになった。

 「守礼門」「歓会門」の名前に象徴される「万国津梁」(世界のかけ橋)のシンボルは、王国の消滅によって、武張った兵舎に変貌していく。

 本来の主を失った首里城は外観も内部も荒れる一方だった。見るも無残な荒廃した姿を多くの旅人が書き記している。

 首里城が首里区に払い下げられたのは1909年のことであるが、修復する資金がなく、解体の危機に見舞われた。

 首里城が国宝に指定され修復・保存されたのは、鎌倉芳太郎、伊東忠太、阪谷良之進ら専門家が文化財としての重要性にいち早く気づき、資料を集め、政府に強く働き掛けたからである。

 彼らが収集した資料や写真、尚家文書は復帰後の復元作業にも大きな威力を発揮した。

 沖縄戦では、第32軍司令部が置かれたことで首里城とその一帯は、米軍の攻撃目標となった。

 激しい爆撃と艦砲射撃。「アリ一匹残らないぐらい」に鉄の暴風が吹き荒れ、首里城は跡形もなく消えた。一帯は臭気がいっぱいだったという。

 戦後、この跡地に開学したのが琉球大学である。

■    ■

 新しい年は首里城の「再建元年」になる。

 有識者会議の設置など政府や県の取り組みは急テンポだ。再建を願って支援を申し出る人が途切れないなど県内外から予想を超える寄付も寄せられている。

 防火対策、木材や瓦の資材調達、技術者の確保と育成など、クリアすべき問題は多い。

 そして課題はそれだけにとどまらない。

 首里城再建が、焼失前の形に戻すだけの試みであれば、プラスアルファの付加価値を付けることはできないからだ。

 県民の中には再建に向けての動きが国主導で進められることへ強い違和感を持つ人も多い。再建にあたっては、県民が主体となるような理念づくりと具体的な取り組みが必要である。

 龍潭の近くにあった中城御殿などの復元や、司令部壕の整備公開もこの際、検討し直すべきだ。首里城のウチとソトを一体的に整備し、沖縄の人々の「希求」が伝わってくるような再建が望ましい。

 民芸運動で知られる柳宗悦をはじめ、戦前、沖縄を訪れ、首里のたたずまいを絶賛した文化人は多い。

 首里城再建を沖縄の歴史と文化を学び直す機会にしたい。

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