東京五輪レスリングで銅メダルを獲得した屋比久翔平選手。五輪は父と子の夢でした。親子の歩みを取材した「TOKYO師弟物語」を再掲します。(初掲載日 2020年1月3日)

[TOKYO師弟物語]屋比久翔平×父・保さん(上)

百日記念写真に写る屋比久翔平(提供)

東京五輪を目指す屋比久翔平(上)。全日本選手権決勝を無失点で制した=2019年12月22日、駒沢体育館

グレコローマンスタイル82キロ級で五輪を目指した屋比久保さん(左)=1989年9月21日、岩内中央小体育館

百日記念写真に写る屋比久翔平(提供) 東京五輪を目指す屋比久翔平(上)。全日本選手権決勝を無失点で制した=2019年12月22日、駒沢体育館 グレコローマンスタイル82キロ級で五輪を目指した屋比久保さん(左)=1989年9月21日、岩内中央小体育館

 赤ちゃんの生誕100日を祝う百日記念。その記念写真に、中央に日の丸のワッペンが着けられたレスリング用のシングレットを着た赤ちゃんが写る。男の子の名は、屋比久翔平(浦添工高−日体大出、ALSOK)。家族の期待を背負い、レスリングの男子グレコローマンスタイル77キロ級日本代表で25歳になる2020年、東京五輪の大舞台を目指す。

 父の保さん(57)もレスリング選手として五輪を目標にした一人である。1988年ソウル五輪の最終選考会で敗れ、一度は引退も考えた。沖縄で教職に就いていたが、夢を諦めきれず育児休職で東京へ。92年バルセロナ五輪を目指した。

 夢を絶たれた日のことは今も鮮明に覚えている。

 最終選考を兼ねた全日本選手権だった。決勝リーグ第2戦、ローリングで2点を先制し、残り50秒。変に力がかかった左脚から「ばちっ」と音がした。見ると、左脚が奇妙に曲がり、太ももが顔の横にある。

 「最後だからとおふくろを連れてきていた。その目の前でけがをしたんだ」。立ち上がろうとするも、膝がぐらついて立てない。レフェリーが試合続行を不可能と判断してそのまま救急車に乗り、病院に直行。左膝内側靱帯(じんたい)2カ所と前十字靱帯、半月板2枚を損傷の大けがと診断された。

 保さんが30歳になる年だった。五輪をあと一歩で逃した悔しさはもちろんあったが「30歳になる年までやった。やりきったからいいかな」と引退を決めた。次は高校の指導者として、教え子と共に五輪を目指す道を歩み始めた。

 翔平が生まれた95年、保さんは北部農林高校で教壇に立っていた。自宅は学校の近く。翔平はハイハイしていた頃から同校のレスリング道場が遊び場になった。コロコロ転がされたり、ロープを登ったり。翔平も「高校生に遊んでもらう感覚だった」と自然とレスリングに親しんだ。

 本格的に翔平がレスリングを始めたのは、嘉数小3年の時。2010年の美ら島沖縄総体を目標に、保さんがキッズクラブ「てだこ道場」を開いたことがきっかけだった。それまで柔道をしていた翔平だったが「基礎もほとんどできた」と幼い頃から親しんできた分、土台はできていた。

 県内では「動画で海外選手のすごい技のハイライトを見ていて。『やべー。格好いい』と憧れていた」と飛行機投げなどの大技で勝つ翔平。だが「みんなと比べてレスリングをかじったのが早いだけ。こんなんで満足するな」と保さんに怒られた。県内で優勝できても、全国大会に出ると「レベルが全然違った」(翔平)と初戦突破がやっと。成長期も他の選手と比べて遅く、中学入学後はついに県内でも勝てなくなった。(我喜屋あかね)

<下に続く>