戦前から戦後にかけて猛威を振るったマラリアの「防遏(ぼうあつ)事業」に従事した八重山保健所(沖縄県)の元職員で、約40年前に73歳で他界した本盛信雄さんが残したマラリア撲滅までの資料や手記、写真など約200点が石垣市の自宅に保管されていたことが7日までに、分かった。治療薬が不足した際に宮古群島政府(当時)から譲り受けたことなどが記録されている。専門家は「撲滅に挑んだ人々の感情や葛藤も読み取れる貴重な資料」と話す。(社会部・新垣玲央)

本盛信雄さんの手記などの一部。「万一、1人でもマラリア罹患者の入域を許せば、再び八重山はヤキーの島に転落する」と危惧する記述もある

ウィラー博士(前列右)の来島を記念し、マラリアの撲滅に奔走した八重山保健所職員らと記念撮影する本盛信雄さん(同左)=1959年9月28日

本盛信雄さんの手記などの一部。「万一、1人でもマラリア罹患者の入域を許せば、再び八重山はヤキーの島に転落する」と危惧する記述もある ウィラー博士(前列右)の来島を記念し、マラリアの撲滅に奔走した八重山保健所職員らと記念撮影する本盛信雄さん(同左)=1959年9月28日

 本盛さんは終戦直後の沖縄の医師不足を補う医介輔だった。資料や手記は1947年ごろから60年代までの記録が中心。米軍支給の治療薬アテブリンを配るため島中を歩いた思い出や患者の様子などが生々しくつづられている。

 記録によると、治療薬が不足し始めたのは51年9月ごろ。本盛さんは「防遏対策に大きな支障を来す」との危機感から米民政府に譲与を要請したが実現の見通しが立たず、沖縄本島へ出張し各保健所に協力を求め駆け回ったことなどを記している。

 だが、本島中南部の保健所にも治療薬はなかった。背景として「米軍が回収して朝鮮方面へ送ったと聞いた」と朝鮮戦争が薬不足に影響したことをうかがわせる記述もあり、本盛さんは「全身の血が一度に引いたような思いで失望落胆、語るべき言葉もなかった」としている。

 名護保健所では1万5千錠のアテブリンを入手できたが、約3カ月分だけの使用量。失意の中で飛び込んできたのが、「宮古に大量の在庫がある」との情報だった。石垣島出身者の協力も得ながら窮状を訴え、患者の約7割が宮古島からの移住者であることなどを示して懇願し、50万錠を譲り受けることとなった。

 手記では「譲与がなかったら撲滅事業は完全にお手上げ」だったとし、「開発事業、移民計画は終止符を打たざるを得ない事態となり、戦後の混乱はますます増大して再び終戦時のような恐ろしい世の中になっただろう」と感謝をつづっている。

 最終的な撲滅計画で成果を上げた米民政府を評価しながら、歴史と教訓が忘れさられていくことを危惧する記述もあり、「末永く子孫に伝えていかなければならない」と記した。

 資料を保管していた1人娘の和さん(84)は「父は身をもってマラリアの恐ろしさを経験した。そんな一生懸命だった人々がいたから、今の八重山がある。忘れないでほしい」と願う。

 和さんの孫で全資料を託されたNHK沖縄放送局のキャスター内原早紀子さん(26)は「祖母の意向も聞きながら、博物館に寄贈するなり何らかの形で残していきたい」と話している。