[戦世生きて くらしの記録](5) 金城光栄さん(上)
勇壮に舞う旗頭、太鼓や鐘の響きに胸が高鳴った。大綱の上に立つと、通りを埋め尽くす大衆の視線が一挙に集まる。周りを見渡す余裕はない。上下にうねる綱に足先を絡め、落ちないよう必死に踏ん張った。
1943年9月14日、当時15歳で糸満青年学校1年生だった糸満市の金城光栄(こうえい)さん(91)は、五穀豊穣(ほうじょう)や無病息災を祈願する旧暦8月15日の伝統行事「糸満大綱引」の熱気の中心にいた。
◆綱引きの「花形」に
任されていたのは、シタク(支度)役。伝説上の人物に扮(ふん)して綱引き前に南北両陣営の士気を高める花形だ。だが、この年は伝統衣装ではなく、女学生のセーラー服を代用した海軍の水兵姿で大役に臨んだ。
日中戦争が開戦した37年から続く「国民精神総動員運動」真っただ中。伝統行事も大政翼賛会や在郷軍人会が取り仕切り、シタクも戦意高揚の「道具」に変わっていた。
命じられたのは本番1週間ほど前。教官に突然呼び出され、将校と兵卒の衣装を自分で用意するよう言われた。ニシカタ(北組)が海軍、フェーカタ(南組)が陸軍で2人一組。一番年下だった光栄さんは海軍の兵卒役を任され、焦った。
当時の糸満は在郷軍人に陸軍が多いが、海軍は少ない。陸軍や下士官の服なら学校の教官が貸してくれるが、水兵の服だけは見つからなかった。困り果てて、思いついたのが、女学生のセーラー服。近所に住む年上の私立積徳高等女学校の女学生から制服を借りようと、勇気を振り絞った。