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家に帰れず、風に吹かれていたら爆音が…那覇が焼けた

2020年2月8日 05:00

[戦世生きて くらしの記録](6) 金城光栄さん(下)

糸満市域で米軍の捕虜となり、現在の糸満ロータリー付近に集められた住民ら。右側が山巓毛=1945年6月(「糸満市史資料編7 戦時資料 下巻-戦災記録・体験談」から転載)

 糸満町(当時)の小高い丘、山巓毛(サンティンモー)は金城光栄(こうえい)さん(91)が国民学校時代、子どもたちの「学び場」だった。

 「サイタ サイタ サクラガ サイタ」-。午後4時から5時まで児童の「家庭学習」時間。そうめんの空き木箱が机代わりで、ほぼ毎日通って勉強したり、遊んだり。ただ、防空監視哨(しょう)があった頂上への立ち入りは決して許されなかった。

 太平洋戦争に突入した1941年12月に「防空監視隊令」が公布され、青年学校の生徒らが監視哨員として常駐していた。子ども心に「秘密の大切さ」を知りながらも気になり、徴兵される先輩たちには憧れも抱いた。

 監視哨員になったのは青年学校に入った43年春、15歳だった。家には帰れず、6人3交代で、寝食全て山巓毛で生活した。灯火管制で真っ暗闇の中、試肝(したん)会(度胸試し)もあった。

 44年10月10日午前6時45分ごろ。交代前の光栄さんが風に当たっていた時、同僚の言葉が静寂を打ち消した。

 「爆音が聞こえる」

 慌てて双眼鏡で南東を見ると、眼前に無数の機影。あれはグラマン、あれはシコルスキーか-。米軍機と確信し、報告したが、いつまでも空襲警報の発令はない。許可を待てず、独断で手動サイレンを回した。

 那覇上空は大火に照らされ、真っ赤に染まった。監視哨も攻撃され、絶壁に身を隠しながら報告を続けた。仲間に犠牲者は出なかったが、苦しみと悲しみは始まりにすぎなかった。

 米軍が慶良間上陸した45年3月末、監視哨を撤退。4月1日に口頭で「少年警察官」の辞令を受け、避難誘導や伝令などを担った。戦況悪化で撤退した南部は「いつまで歩いても死体ばかり。まともな死体はない」光景が続いた。

 行き着いた喜屋武岬で兄が伊原の第3外科壕にいると聞き、戦火の中を駆けた。壕内は足の踏み場もないほど負傷者でひしめき合い、うめき声や断末魔の叫びが響いた。「死体も山ほど。一人一人調べることなんてできない」。兄を捜すことは、諦めるしかなかった。

 戦後、収容所から帰郷した45年12月、真っ先に山巓毛へ行った。瓦礫(がれき)と化した姿を前に「生き延びた」と初めて感じたが、言葉を失い立ち尽くした。遺骨も見つからない兄や戦死した仲間の顔が浮かんでいた。

 監視哨仲間も一人、また一人と集まったが、3人だけ戻らなかった。遺族に会った時、「なんでお前たちは生きて、私たちの子は死なないといけんのか」と言われた。言葉も返せず、断腸の思いだけが募った。(社会部・新垣玲央)

 

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