[戦世生きて くらしの記録](13)石垣市出身 石垣正子さん(上)
「まさちゃん、それ、皮じゃないのになんでむくの? あっこん(サツマイモ)とは違うよ」「えっ?」。1944年夏ごろ、当時10歳だった石垣市の石垣正子さん(86)は親戚からの突っ込みで顔を真っ赤にしながら、もらった巻きずしを一気に頬張った。
ノリを初めて見た。キュウリなどを酢飯と一緒に包む、その「黒い皮」が食べられるとは知らなかった。
「おすし」は幼い頃から母が作ってくれた一番の好物だが、食べたことがあるのは薄切り卵などが入ったちらしずしだけ。「おすしといったら、ちらしずし。ノリも巻きずしも見たことなんてないもん」。笑い転げる親戚らを前に食べた初めての味、あの恥ずかしさは今も忘れられない。
いつも、母の手料理が楽しみだった。祖母が「ばんちゃーぬとよー(うちの嫁の豊は)てぃーかばさんどー(料理上手よ)」と近所に自慢するほどの腕前で、ちらしずしは得意料理。だが当時、母は台湾に疎開していて島にはいない。恋しさが募るばかりだった。
44年7月にサイパン島が陥落。軍の要請を受けた政府が女性や子ども、お年寄りを本土に8万人、台湾に2万人を移す疎開命令を県に通達した時期だった。米軍上陸を見据え、足手まといになる住民を排除することが目的で、正子さんが住む石垣町(当時)など八重山は台湾疎開が奨励されていた。
父が働く台湾に家族で疎開しようと決めたが、正子さんは島に残ると言い出した祖母を1人にできなかった。「大事な家。誰かに貸すか、管理してもらわないと、どこも出たくない」と祖母。若くして亡くなった祖父と苦労して建てた思い出の詰まった家だった。
その家を日本兵が「占領」したのは、母が兄と弟を連れて島を出てしばらくした頃。1部隊20人ほどが住むようになり、正子さんは祖母と2人、親戚宅で寝泊まりするようになった。
「戦争、戦争で大変だから当然のこと」。そう考えると嫌とは思わなかった。むしろ、兵隊が「まさちゃんとばあちゃんの分ね」と分けてくれる料理がおいしくて、祖母と一緒に食べるのが楽しみになっていた。
「これ、方言でなんて言うの?」と尋ねる兵隊には八重山のスマムニ(島言葉)を教え、軍医と一緒に歌ったり踊ったりもした。「まさちゃんは長男の嫁にしようね」と言われ、「内地に行けるんだ」とワクワクしたこともあった。
そんな、穏やかな日々は長くは続かなかった。45年6月、軍命でマラリアはびこる於茂登岳西方山中の白水に強制避難させられた後、台湾に向かう疎開船に乗った。待っていたのは米軍の攻撃と、漂着した尖閣諸島の魚釣島で飢えに苦しむ遭難生活だった。(社会部・新垣玲央)