【渡嘉敷】75年前に米軍が上陸し「集団自決(強制集団死)」などで住民が犠牲になった渡嘉敷村で28日、戦没者を追悼する慰霊碑「白玉之塔」を戦争体験者や遺族ら幅広い世代が参拝し、平和を誓った。(南部報道部・松田興平)

白玉之塔に刻まれた遺族の名前をなぞる家族連れ=28日午後1時ごろ、渡嘉敷村

 毎年恒例の式典は、新型コロナウイルス感染拡大で中止になった。哀悼の意をささげようと90代から、そのひ孫世代まで多くの家族連れが塔を訪れ、碑に刻まれた遺族の名を手でなぞった。

 1945年3月26日に米軍は阿嘉、座間味、慶留間、翌27日に渡嘉敷の各島に上陸。地上戦の始まりとなった慶良間諸島の住民たちは「集団自決」に追い込まれた。

 家族で訪れた金城満さん(56)は約10年前に亡くなった父重栄さんと、その弟で叔父にあたる重明さんが家族を手にかけた記憶を胸に刻みつける。

 「おやじが語り始めたのは亡くなる少し前。両親と弟、妹の命を奪ってしまった、と。おやじと叔父は、10代でそんな状況に追い込まれた」と心情をおもんばかる。「事実を継ぎ、節目節目に手を合わせていく」と語った。

 新里武光さん(83)は家族、親戚十数人で島内を逃げ回っている時、周囲で手りゅう弾による「自決」が始まった。

 「爆発する音、人が苦しむ声を鮮明に覚えている。私たちは怖くなってその場から逃げ出した」。当時4歳だった弟は逃げている最中、後頭部に砲弾の破片が当たり亡くなった。「破傷風になって、最期は何も言わずに死んだ」と声を落とした。

 同級生と参拝した座間味秀知さん(14)は、地上戦を生き抜いた祖父母から、逃げ惑った体験談を聞いてきた。「おじいちゃん、おばあちゃんは戦争の時、小学校1年生ぐらい。自分だったら耐えられない。そう考えると、今の暮らしを幸せに感じる」と話した。

 三重県から家族4人で来島した小学校教員の赤塚理(おさむ)さん(33)は「子どもたちに戦争の歴史を教える時、文字から得た知識に加えて現場で見て感じたことを言葉に込めたい」と話した。