「小さい子どもたちが、泣きよったわけよ…」。読谷村の天久シズさん(86)は何度も声を詰まらせながら言葉を紡いだ。1945年4月2日、同村波平のチビチリガマで85人が命を奪われた「集団自決(強制集団死)」の場にいた。犠牲者の約6割が18歳以下で、仲の良かった同級生も亡くなった。「でも、私は生きた」。家族にもほとんど語れない苦しみと悲しみは75年たった今も消えない。(社会部・新垣玲央)

「集団自決(強制集団死)」で命を奪われた友らの話を止めて、戦死した父が好きだった曲をハーモニカで奏でる天久シズさん=3月30日、読谷村内の自宅

「集団自決(強制集団死)」に追い込まれた多くの住民が命を落としたチビチリガマ=読谷村波平

「集団自決(強制集団死)」で命を奪われた友らの話を止めて、戦死した父が好きだった曲をハーモニカで奏でる天久シズさん=3月30日、読谷村内の自宅 「集団自決(強制集団死)」に追い込まれた多くの住民が命を落としたチビチリガマ=読谷村波平

 6人きょうだいの長女として育った天久さんは4歳の頃に脳性まひを患い、左半身の自由が利かなくなった。沖縄戦時は11歳で、国民学校5年生。空襲や艦砲射撃が激しくなった3月末、家族で集落西側のチビチリガマへ逃げ込んだ。

 約140人の住民がひしめき合う中、混乱が始まったのは4月1日、上陸した米軍がガマを見つけてから。翌2日、激しく動揺していた住民らの中には敷物や布などに火を付けて自らや身内の死を選ぼうとする者や、毒薬注射を手にする看護師の姿があった。

 「鬼畜米英」などとゆがめられた情報や皇民化教育で、住民は身内を手に掛ける極限状態に追い込まれていた。天久さんも「捕まれば、いたずらされ殺される」と聞いたが、母ウタさんは「こんなにしては死ねない。家で死んだ方がいい」と家族の手を引いた。

 外へ出ると多くの米兵に囲まれた。「怖かった」。ガムをもらっても「毒入りだと思って砂に埋めた」。本島北部の収容所生活で飢えに苦しみ、宜野座村漢那では4歳の弟をマラリアで失った。戦前亡くなった末妹もマラリアだった。

 防衛隊に召集された父は大宜味村押川で5月15日に戦死。30代で一人親となった母は子ども4人を厳しく育てた。天久さんは「一番(年)上だから、自分で生きなさい」と何度も言われたことが忘れられない。ただ「あの日」の話は、2007年に97歳で他界するまで、ほとんどしなかった。

 「集団自決」犠牲者の約半数は、同年代(12歳)以下の子どもたち。お手玉などでよく遊んだ同級生も一家で命を落とした。「みんな亡くなった。ミヨさんとシズさんも…。話したくもない。こっち(胸)が詰まって涙も出せない」

 あの時、ガマで響いた子どもたちの泣き声は今でも耳に残る。「もう、戦争なんて」。そう言って何度も口をつぐんだ天久さん。生かされた1人として言葉にできない思いが、いつまでも胸を締め付けている。