[戦世生きて くらしの記録](19)読谷村出身 上原豊子さん(上)
1944年、ある秋晴れの日、庭に干された妹の布オムツを見て、当時8歳の上原豊子さん(83)=読谷村波平=はひらめいた。「これだ」。風で揺れるオムツをさっと手に取り、二つ折りにして裾を合わせるとイメージ通り。針と糸で縫い防空頭巾に仕上げた。
「あんしぇ、じょーじやるー(あれま、上手だね)」。かぶって外へ出て、いとこの子守をしていると、近所の人たちが褒めてくれた。「うれしくてその気になり、ほとんど毎日かぶるようになったさ」
5人きょうだい2番目の長女。村唯一の写真屋を営んでいた父亀吉さんは大阪などへ出て家を空けることが多く、母カマドさんは毎日、畑仕事へ。豊子さんの仕事は幼いきょうだいや親戚の「こみやー(子守)」で1日の多くを幼子と外で過ごしていた。
「ワーワー泣きやまんから、ちょっと足をちんむった(つねった)こともあった。余計泣いて大変だったけどね。泣かんでーって自分も一緒に泣いたこともあった」。笑って振り返るが、悲しい思い出もある。
ある寒い日、玄関先で風に当たりながら親の帰りを待っていると、おぶっていた末っ子の進喜さんが背中で亡くなっていた。はしかだった。幼い豊子さんは訳も分からず、泣いた。
南西諸島を米軍艦載機が襲撃した「10・10空襲」以降、外に出るのが不安になっていた。防空頭巾が欲しかったのは、あの日一気に高まった恐怖心から。その後も断続的に米軍の空襲は続き、多くの住民が地域に散在するガマ(自然壕)への避難が多くなっていた。
「あっち(米兵)はひーじゃーみー(ヤギの目)だから日本が勝つよ。物も見えんし」。子ども同士の会話にもあった日本軍の優勢を信じるうわさ話も、あの日から変わった。「捕まれば戦車でひき殺される」「負けたらどうなる」と恐れ、戦争をより意識した。
ただ、自慢の防空頭巾があれば外へ出ていても「少しは安心できた」。だが、いつまでそれを身に着けていたかは覚えていない。
祖父の次郎さん(当時81歳)は艦砲射撃の破片を受けて足を負傷した。空襲が激しくなった45年3月末、歩けない祖父を連れて家族で逃げ込んだのが、チビチリガマだった。
米軍上陸前、防衛隊に召集されていた父がガマを訪れ、母に頼んだ。「この戦は必ず負ける。死ぬことだけはするな。何としても子どもたちを守ってくれ」(社会部・新垣玲央)