戦世生きて くらしの記録

「うりひゃー、敵がちょーんどー」 母に守られ「自決」逃れる 4人の子託した父は落命

2020年4月3日 05:00

[戦世生きて くらしの記録](20)読谷村出身 上原豊子さん(下)

 もうもうと立ちこめる煙の中を、「とにかく外へ、外へ」と進んだ。「あがーよー、あがーよー(痛いよ、痛いよ)」と、悲鳴や子どもの泣き声が聞こえても、気に掛ける余裕はない。一緒だった弟や妹の存在まで「忘れていた」。

 1945年4月2日、当時8歳だった読谷村の上原豊子さん(83)は、家族で潜んだチビチリガマで「集団自決(強制集団死)」を逃れようと必死だった。表現もできない声が響く中、母カマドさんの着物の裾をギュッと握り締めていた。

 混乱の始まりは前日の1日、米軍が本島西海岸に上陸した日だった。ガマは読谷の海岸から800メートルほどの距離。外から戻った住民の「うりひゃー、敵がちょーんどー(敵が来てるぞ)」との声に騒然とした。

 米軍が投降を呼び掛け、「戦争は終わりました。外には食べ物も水もあります」などと書いたビラを見せたが、誰も出ようとはしない。竹やりを手に住民がガマを出て、男性2人が米兵に撃たれたと聞いた。

 2日朝、上半身裸の米兵が本のような物だけを手にガマに入り、投降を呼び掛けた。「だまされるな」との声が飛んだ。米兵が出た後、誰かが布団に山積みにして、火を付け始めた。

 煙が充満し始める頃、豊子さんが母に「おしっこがしたい」と言うと、布を渡された。母が言う通りにし、用を足したその布で口と鼻を抑えて煙を防いだ。

 ガマでは、「ごめんね、ごめんね」と子どもに布団をかぶせ火を付ける親、子に馬乗りになり何度も何度も包丁を突き立てる親を見た。毒入りの注射器を看護師に打ってもらおうと住民が並ぶ列に、当時12歳の兄進助さんの姿もあった。

 兄は看護師に「家族や友だちをやって残ったら(注射)してあげる」と言われたが、薬は足りず戻ってきた。看護師は最後、自分に注射し「進ちゃん、ごめんね」と言ったと聞いた。

 負傷して歩けない祖父次郎さんだけは一緒に出られず、命を落とした。防衛隊にいた父亀吉さんは4月1日、仲間と居た壕で1人、米兵に射殺されていた。

 母は「草むらをはってでも帰るから、何としても子どもたちを守って」と頼んだ父の言葉を胸に、子ども4人を守った。「何の罪も犯していないのに、なぜ夫を奪ったのか」と嘆いた姿が今でも忘れられない。

 あの「自決」では、幼子含む85人が亡くなった。豊子さんは言う。「あの悲惨さ、戦争はあの後も続き、みんな苦しんだ。分かってたはずなのに、なんで止められなかったのかね…」

(社会部・新垣玲央)

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