[動かぬフェンス~普天間飛行場全面返還合意から24年~](下)

仲間あずみさんと米軍普天間飛行場内のガジュマル=5日、宜野湾市真志喜

 宜野湾市真志喜の仲間あずみさん(46)は、小さい頃から大好きな木がある。実家から歩いて1分のガジュマルだ。根元に従えているのは、手入れの行き届いた芝生。枝を自由に広げられる空間で、民家も電線もない。ガジュマルが普天間飛行場の中にあるからだ。

 米軍は太平洋戦争中に飛行場を造り始め、戦後に拡張。1944年当時にあった22字のうち、真志喜を含む14字にまたがった。仲間さんは、ガジュマルの木陰を見ると「昔の人たちは農作業を終えて、ここで一服したんじゃないか」と考え、月が出ると「もーあしびーの場所だったのかも」と想像してきた。

 96年の普天間返還合意から間もなく、仲間さんは国際協力機構(JICA)ボランティアの幼稚園教諭としてボリビアへ渡った。派遣先は、日系人の多いサンフアン村。200キロ先には県人移民地「コロニアオキナワ」があり、歓待を受けた。手に入りにくい豆腐や納豆は、大豆を水に漬けるところから。沖縄そばは小麦粉をこねるところから。仲間さんは「料理一つとっても沖縄の原風景が残っている」と感動した。

 村ではNHK衛星放送を視聴できるようになり始めた頃で、2000年の沖縄サミットは現地で知った。「世界のトップが沖縄を見に来てくれるんだから、基地だって動くかも」と思った。

 約3年のボリビア生活を終えての帰沖。ちゅらさんブームで観光客が増え、新しい道路が続々とできていた。しかし、あのガジュマルは相変わらずフェンスの中。仲間さんは「自分の中にある沖縄の原風景って何だろう」と問い始めた。

 小学生の頃の遊び場は宜野湾市大山の田芋畑。カエルやカニを捕まえて泥だらけになった。烏骨鶏(うこっけい)を飼っている友人に、卵焼きをごちそうになった。大宜味村の祖父母の家には三線が飾られていた。

 一方、高校時代はキャンプ・キンザー内の軍人家族宅で英語を習い、妹と泊まるのが楽しかった。就職すると「結婚するなら公務員が安定してていいけど、軍用地主だったらもっといいよね」と話す後輩がいて、そういう価値観もあるのかと驚いた。

 仲間さんは思う。「ガジュマルは基地があるから守られている。でも、基地があるから失ったものもきっとある」。仲間さんは同級生らと市民団体「にぬふぁぶし」を立ち上げ、宜野湾の歴史や文化を知るイベントを重ねている。(中部報道部・平島夏実)