[戦世生きて くらしの記録](24)浦添市出身 富本祐二さん(下)
米軍が沖縄本島に上陸した1945年4月、当時9歳だった浦添市前田の富本祐二さん(84)は、家族10数人で那覇・首里へ避難していた。
「前田は危ない」と誰か大人たちが知らせたためだった。だが、たどり着いた首里でも砲弾が飛び交い、身を隠せそうな壕を見つけられない。
「どうせ死ぬなら、生まれた集落で死のう」と父が言い、再び前田へ引き返した。夜、米軍の攻撃がやんだころに父母の手を握って逃げると、「ヒュー」と、砲弾が飛んで風を切る音が聞こえてくる。ぱっと手を離して逃げ、静かになれば、暗闇の中で父母の手を探してつなぎ、再び歩く。その繰り返しで、いつしか弾が近くに落ちるか遠くに落ちるか、音で分かるようになっていた。
前田では、先祖の墓の近くの壕に入った。どれくらいの時期を過ごしていたのか分からない。食べ物も飲み水も底を突き、1週間ほど何も口にしていなかったある日、父が「水をくみにいく」と言って出て行った。
水があるのは、壕から500メートルほど離れた場所だった。しばらくして、バケツに水をたたえて父が帰ってきた。胸からは、大量の血があふれていた。外で弾に当たっていた父はバケツを渡し、そのまま倒れた。
富本さんたちはその日、壕にやってきた米軍に捕虜として連れ出された。壕から出ると、焼け焦げた5、6人の遺体が目に入った。自分もこうやって焼かれるんだと思っていた。
終戦後、前田地区に入れるようになったころ、最後に家族でいた壕に行った。父親が、胸から血を流した時のままの姿で息絶えていた。
富本さんは「今も、おやじのあふれていた血が目に浮かぶ。壕から出るとき、おやじは生きていたのか、それもはっきり分からない。多分、息はあったのかと思うんだけど……」と静かに振り返る。
浦添市史によると、前田地区は沖縄戦で201世帯934人のうち、549人が戦死。戦死率は58・8%に上り、59世帯が一家全滅した。
その戦渦の中に自らがいたことを知ったのは戦後しばらくしてからだ。ただ、これまで積極的には戦争体験を話してこなかったし、これからもそのつもりはないという。
鳥の鳴き声が響き、のどかな前田地区を眺めながら、富本さんは語る。「今の子どもたちに話しても、想像はつかないでしょう。どうやったって、信じられないし、私も言葉だけで伝えきれる自信はない、と思うんです」。(國吉美香)