那覇空港第1滑走路近くで4月、相次いで見つかった不発弾3発は1944年の10・10空襲で航空機から投下された可能性が高いことが3日までに専門家の指摘で分かった。戦後、米軍が整備した那覇空港の現場周辺は不発弾処理がほとんど行われていないとみられ、工事関係者は「今後も発見される恐れがある」と懸念する。(社会部・勝浦大輔、比嘉太一)

不発弾が3発見つかった場所

那覇空港第1滑走路そばの工事現場で発見された米国製250キロ爆弾。わずか13日間で同型の爆弾3発が見つかった(那覇市提供)

10・10空襲で、米艦載機の爆撃を受けて炎上する旧日本海軍の小禄飛行場(現那覇空港)=1944年10月10日(県公文書館所蔵)

不発弾が3発見つかった場所 那覇空港第1滑走路そばの工事現場で発見された米国製250キロ爆弾。わずか13日間で同型の爆弾3発が見つかった(那覇市提供) 10・10空襲で、米艦載機の爆撃を受けて炎上する旧日本海軍の小禄飛行場(現那覇空港)=1944年10月10日(県公文書館所蔵)

■250キロ爆弾

 那覇空港の前身は33年に造られた旧日本海軍の小禄飛行場。沖縄戦では中枢施設として米軍の標的となり、44年の10・10空襲で第1波の集中攻撃を受けた。市内では午前7時前から午後3時すぎまで断続的に爆弾投下が続いた。飛行場は45年6月に米海兵隊に占領され、日本復帰まで米軍の管理下にあった。

 4月17~29日の13日間で立て続けに見つかった3発の不発弾はいずれも米国製の250キロ爆弾。先に見つかった2発は4月26日に処理された。残り1発は5月4日未明に処理される。

 那覇市歴史博物館の外間政明学芸員は「250キロ爆弾は航空機から投下するもの。私が知る限り、10・10空襲以後この地域で大きな空襲はない。今回見つかった不発弾も10・10空襲時のものとみて、ほぼ間違いない」と指摘。「那覇空港は整地も米軍が行ったので、不発弾もそのままだろう」と話す。

■戦後初の工事

 発見場所は駐機場と滑走路を結ぶ誘導路(長さ約100メートル、幅約30メートル)4本を新設するうちの1本の工事現場。発注する沖縄総合事務局によると、3発とも近くで見つかった。深さ約2メートルの掘削作業中に磁気探査機が反応した。

 担当者は「滑走路や建物などの構造物がある場所は磁気探査しているので、下から不発弾が見つかることはない」と説明する。

 だが誘導路の建設現場については「おそらく戦後初めて工事する場所。今後また不発弾が出てくる可能性はある」と認める。現在2本の誘導路建設が始まっており、4本全ての工事完了は9月を予定している。

■過去20回処理

 空港は復帰後、ターミナルビル建設や滑走路の拡張、増設などの整備が進められてきた。那覇市が把握するだけで、78年~2020年の那覇空港での不発弾処理は20回に及んでいる。

 今回見つかった不発弾が処理されるまで第1滑走路は閉鎖され、空港は第2滑走路だけでの運用を強いられる。大型連休中は多くの離着陸があるが、コロナ禍の影響で今年は例年の3分の1以下に激減している。

 空港関係者は「平時であれば遅延便などが発生し、影響は甚大だった」と説明。別の関係者は「第2滑走路の完成前だったら、滑走路が使えず空港は閉鎖状態に陥っていた」などと話した。

【10・10空襲とは】
    
 1944年10月10日に沖縄や奄美などを襲った米軍の無差別爆撃。延べ1396機の艦載機から541トンもの爆弾を投下した。日本軍の軍事拠点の破壊と本土攻略に向けた沖縄の地形空撮などが目的。各地の飛行場や港が壊滅的被害を受け、旧防衛庁資料などによると死者668人を含む約1500人が死傷し、那覇は市域の約9割が焼失した。このほか久米島沖でも八重山からの徴用船が撃沈されて約600人が亡くなった。