[戦世生きて くらしの記録](25)糸満市出身 城間繁雄さん(上)
年に数回だけしかもらえない小遣いを握りしめ、高嶺駅からケービン(軽便鉄道)に飛び乗った。糸満駅を降りてワクワクしながら本屋へと走り、お目当ての雑誌「少年倶樂部(くらぶ)」を手に入れると、胸が躍った。
糸満市の城間繁雄さん(87)が幼少の頃、子どもたちの間で話題だった少年向け雑誌だ。「ひーじゃーくさかやー(ヤギの餌になる草刈り)したら、ヤギや馬を売った時に小遣いがもらえたから、買いよった。読み終わったら誰かに売ったりして。みんな好きだった」
中でも楽しみだったのは「冒険ダン吉」。相棒の黒ネズミ・カリ公と釣り船で流され、はるか南の島に漂着した少年ダン吉が主人公で、先住民に捕らえられそうになったり、猛獣に襲われたりしながら知恵と機転で尊敬を勝ち取って王となり、文明を広める-。そんな物語に、夢中だった。
旧高嶺村(現糸満市)与座に生まれ、8人きょうだい5番目の長男として育った。近くに製糖工場があり、水車が回り、サトウキビ畑が広がる豊かな農村地帯。両親はヤギや豚、馬などを養い、城間さんは高嶺国民学校に入る頃から草刈りが「仕事」になった。
小学生時代の数少ない楽しみが「少年倶樂部」を読むことだった。「冒険ダン吉」は、ドジで真っ黒な野良犬が軍隊で活躍する姿を描いた「のらくろ」と並ぶ人気作。裸に腰みのを着けて王冠をかぶったダン吉が、未開の島で先住民を従え活躍する姿に冒険心をくすぐられた。友だちと回し読み、夢を膨らませた。
そんな少年雑誌も、1937年の日中戦争から軍事色を強めていた。太平洋戦争が始まった41年以降で覚えているのは「いつも勝った勝った。日本がどこで大勝利したとか、戦争のことばかり」。「冒険ダン吉」の連載は、終わっていた。
学校では竹やり訓練が始まり、戦車の進行を妨げる溝を掘る「戦車壕掘り」もやらされた。「少しでも戦争が怖いとか嫌だと言えば叱られる状況。訳も分からんのに『弱虫』『国賊』なんて言って強がる子とかもいた」。少年たちの心も軍事色に染まっていた。
45年3月下旬から空襲や艦砲射撃が激しくなり、生活は一変した。米軍上陸後は、両親と祖父母、4歳の末っ子弟の6人で南部を逃げ隠れする日々が続いた。北部疎開で助かったきょうだいを除き、南部の激戦で生き残った家族は弟と2人だけだった。
(社会部・新垣玲央)