戦世生きて くらしの記録

日本軍に追い出された直後 壕に艦砲弾直撃 空腹で泣く弟「敵に見つかるから殺せ」ほかの家族に責められる

2020年5月28日 18:00

[戦世生きて くらしの記録]本部町出身 根路銘国文さん(下)

教員時代に自作した艦砲弾の模型を手にする根路銘国文さん。子どもたちには「こういう物が雨のように降ってきたよ」と説明している=本部町谷茶

 沖縄本島で地上戦が始まった1945年4月、本部町の根路銘国文さん(83)=当時8歳=の一家7人は、八重岳の北側にある真部山の壕を転々とし、死線をさまよった。海は米戦艦で埋め尽くされ、一家は艦砲射撃を避けるため、海と反対側の斜面に掘られた壕に身を潜めた。

 「ヒュー、ヒュー、バーンッ!」。艦砲弾が風を切って山頂を飛び越え、壕の前で爆発する。「どこに落ちるのか」。衝撃と恐怖で根路銘さんの体はブルブルと震えた。

 ある壕では、入り口に置き去りにされた負傷兵が「兵長殿、苦しい。頼ーむ、俺を一緒に連れて行ってくれ」と叫んでいた。うめき声が途絶えた瞬間、負傷兵の手りゅう弾がさく裂。一家は負傷兵の肉片を踏み越えて逃げた。

 別の壕では、日本兵に「宇土部隊の食糧を入れるから君らは出なさい」と追い出された。1分後、壕に艦砲弾が直撃し、食糧を運んでいた兵士たちは死んだ。「生きるか死ぬか、常に紙一重だった」

 生後2カ月の弟が空腹で泣きだし、壕内の別の家族から「敵に見つかるから殺しなさい」と責められたこともあった。母は弟を抱えて砲弾の雨の中に飛び出した。2人の死を覚悟したが、15分くらいすると無事に帰って来た。

 照明弾が上がる中、一家は4カ所目の壕を出た。逃げている途中、はぐれて兄弟3人になると、避難経路を巡って長男と次男が口げんかを始め、三男の根路銘さんは2人に両腕を引っ張られた。長男に従って山の方面へ進むと、住民の集団の中で泣き叫ぶ両親がいた。再会した家族は、「あいー」と抱き合い、うれし涙を流した。

 山を越えて親戚の空き家にたどり着き、仮眠から目覚めると、近くの民家が激しく燃えだしていた。母は赤ちゃんの弟を抱いて山へ。父と兄弟4人でガジュマルの根っこに隠れようとした時、米兵4人が小銃を構えているのが見えた。

 「ワアー!」。死の恐怖から根路銘さんがガジュマルにしがみつき泣き叫ぶと、父が銃口に向かって走りだし、畑の真ん中で両手を高く上げた。米兵は銃を下ろした。

 「鬼畜米英」と教えられていたのに、米兵は父の頭の傷を手厚く治療してくれた。「助かった。逃げ隠れしないで空を向いて歩ける。最高の開放感だった」

 戦後75年たった今も、負傷兵のうめき声が鮮明に耳に残り、「どこの誰だったのか」と思う。戦争体験を伝えようと、今年もまた、地域の子どもたちの前に立つつもりだ。(社会部・榮門琴音)

 

戦時中の暮らしエピソード募集

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