首里城 象徴になるまで

風向きも、焦げた臭いも同じ…首里城炎上 75年前の光景再び

2020年6月1日 05:00

[首里城 象徴になるまで](16) 第2部 戦をくぐって

吉嶺全一さんが一時期通った首里第一尋常高等小学校(後に国民学校)の集会。城廓の中に校舎が建ち、正殿前の広場・御庭は運動場だった(那覇市歴史博物館提供)

吉嶺全一さん

沖縄戦で焼けた首里城一帯。手前が城壁で奥の右に円鑑池、左に龍潭が見える=1945年ごろ撮影(那覇市歴史博物館提供)

島袋文雄さん

吉嶺全一さんが一時期通った首里第一尋常高等小学校(後に国民学校)の集会。城廓の中に校舎が建ち、正殿前の広場・御庭は運動場だった(那覇市歴史博物館提供) 吉嶺全一さん 沖縄戦で焼けた首里城一帯。手前が城壁で奥の右に円鑑池、左に龍潭が見える=1945年ごろ撮影(那覇市歴史博物館提供) 島袋文雄さん

 「御城(うぐしく)、めーとーんさー(首里城が燃えている)」

 そう言って、70歳だった祖母は泣きながら手を合わせていた。沖縄戦下の1945年4月初め。当時12歳の吉嶺全一さん(87)=那覇市首里金城町=が鮮明に覚えている姿だ。家にも城にも近い壕で、那覇沖を埋め尽くした米軍艦の砲撃、空襲から逃れていた日。攻撃が落ち着いた夜、外に出ると城から炎が渦巻いて見えた。

 黒煙が南へたなびき、火の粉を降らせていた。2019年10月31日未明に起きた首里城火災と「風向きも、焦げた臭いも同じ光景。まさか、また見ることになるとは思わなかった」と振り返る。

  ■    ■

 2度の炎上目撃を巡る吉嶺さんの思いは、年齢を重ねた分、違いがある。75年前は「ばあちゃんがなぜ泣くのか、不思議だった」。自身にとっては城というよりも、城壁の中に校舎が建っていた首里第一尋常高等小学校(1941年からは首里第一国民学校)のイメージが強かったからだ。1年生から3年生の半ばまで通い、正殿は雨の日の遊び場。どんな歴史がある建物かを学んだ覚えはなく、日常の一こまに過ぎなかった。

 今は涙の理由が分かる。まだ琉球王国があった1877年に生まれた祖母。しまくとぅばだけを話し、日本語の読み書きはしなかった。家のある首里金城町は城のお膝元。国王が城外の別邸・識名園に行く道すがら、一服した建物・華茶苑などが散在する中で長年暮らした。「身近な城を誇らしく思っていただろう」と追憶する。

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 沖縄戦で、吉嶺さんは糸満市摩文仁まで逃げて米軍に収容され、米軍勤めで英語を習った。旅行会社に転職後も兵士らと付き合いが続いた。1985年に摩文仁で慰霊祭を手伝ったのを機に、戦争体験を語る平和ガイドを始めた。

 元米兵らを復元後の首里城に案内すると、壮麗さに目を見張り、一人は戦時を振り返って「戦争は人を獣や怪物にする」と言ったという。吉嶺さんは「戦禍を思って、平和をかみしめる城。早く元通りになってほしい」と火災からの再建を願う。

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