[戦後75年「あの日、私は…」]

75年前に米軍が上陸した浜辺で、艦砲射撃の恐怖を振り返る西江喜進さん=2日、伊平屋村・前泊の浜

 曇りで、時折小雨が降るような朝だった。1945年6月3日、沖縄県伊平屋村前泊の西江喜進さん(81)は、前泊の浜から、目の前の海を埋め尽くすような多数の米軍艦を見た。村は、米軍が島に上陸し、艦砲射撃などにより村民47人が犠牲になったその日を「慰霊の日」と定める。親族2人を失った西江さんは戦後75年がたち「戦はあってはならない。言葉は違っても心は通じ合える」と訴える。

■軍艦から発射

 西江さんは当時6歳。ずらり並んだ軍艦を見て、「日本軍が守りに来たんだ」。浜辺で拍手し、万歳して歓迎した。午前9時、その軍艦から高射砲が発射され、前岳に命中した。さらに、海から水陸両用車や戦車がこちらに向かってくる。「戦だ」。周囲の大人が騒然とし、西江さんも近くの親戚の家に走った。

 「爆弾が落ちた」「逃げろ」。艦砲やグラマン(攻撃機)の射撃音や怒鳴り声が飛び交う中、親戚と一緒に、前岳の麓にある西江家の避難小屋を目指した。「戦は殺し合いだ」。祖父母の言葉を思い出し、恐怖心が足を速めた。

 避難小屋で母や祖父母、おじやおばと合流できた。午後になり、銃撃が迫ってきたので、逃れるように山中を移動した。最後尾だった13歳のおじ、福蔵さんが付いて来ていないのに気付き、戻ってみると、銃弾か爆弾の破片が後頭部に当たって即死していた。

■ふんどし脱ぎ白旗

 やがて銃撃が落ち着き、祖父が山を下りる決断をした。下山中、麓の道に数百人の米兵が見えた。祖父はふんどしを脱ぎ、木の枝に結んで「白旗」にして掲げた。「米兵は『カモン、カモン』と言うが、意味が分からない。鉄砲を持っているし、殺されると思った」。だが、米兵はいたわるように迎え入れた。

 集落に戻ると、もう一人の祖父、喜芳さんが亡くなったことを知った。避難した壕に手りゅう弾を入れられたため、娘をかばって手りゅう弾を抱え込み、爆死したという。50歳だった。

 西江さんは「祖母はワーワー泣いていたが、自分は幼いし、そこまで悲しい思いはなかった。いつもおなかを空かせていたし、食べることばかり考えていた」と振り返る。

 あの日から75年。「世界では今でも殺し合いをしている」と嘆く。「口げんかはたくさんあっていいけど、暴力は駄目だ。戦は人が死に、貧乏になるだけ。話し合いで協力して世の中を進めてほしい」と望んだ。(北部報道部・又吉嘉例)