マシンやゲージ、防球ネットは、銀行から自分で融資を受けてそろえた。日が昇る前にはグラウンドに立ち、大好きな長渕剛の歌を流しながら、選手が来るのを待ち続けた。自宅では、録画した甲子園大会のビデオを見るのが日課だった。

 2006年、全国の離島勢で初めて自力での甲子園出場を決めた八重山商工。そこには「ベースボール・イズ・マイライフ」と語る伊志嶺吉盛監督(当時)の存在が欠かせない。
 

◇さまざまなハンディを抱えた離島高校の監督に

 地理的な理由による実戦経験の不足に、球児たちの島外流出。さまざまなハンディを抱える中、離島勢悲願の甲子園出場を託された伊志嶺がたどり着いたのは“小中高一貫”の野球指導だ。小学校の「八島マリンズ」で全国制覇、中学では「八重山ポニーズ」でアジア大会優勝、世界大会3位。実績を買われ、全国でも異例の石垣市による「監督派遣事業」で、03年から監督に就任した。

選手らを指導する八重山ポニーズ時代の伊志嶺吉盛監督=2003年1月

◇念願のセンバツ初出場 町は打ち上げ花火でお祝い

 初めてセンバツ出場の吉報が届いた06年1月31日。石垣市内では花火が上がり、「ポー」と祝福の汽笛が島に響いた。グラウンドには多くの島民が集まり、選手たちに胴上げされながら両こぶしを突き上げた。「小さいことの積み重ね。頑張っていたから、甲子園に行けた。野球の神様は見ていてくれた」。

初めてのセンバツ出場を決め、八商工の選手たちに胴上げされる伊志嶺吉盛監督=2006年1月31日、石垣市真栄里・八重山商工グラウンド 

 就任当初、厳しい練習に耐えられず、部員が2人に減った時。のちに甲子園で投げる大嶺祐太らが入学する残りの日々を指折り数え、グラウンドに立った。「目的を遂げるために苦心し、努力を重ねること」を意味する「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」は、伊志嶺の座右の銘でもある。

◇新天地で11季ぶりの優勝に導く手腕発揮

 16年夏を最後に八商工の監督を勇退した伊志嶺は、同年12月に大分県の日本文理大付高の監督に就任。初戦敗退していたチームを、19年5月の「第135回大分県高校野球選手権」で11季ぶりに優勝を飾るまでに引き上げた。契約満了のため、20年3月に退任してからは、石垣島での日々を過ごしている。
 県内の盆栽展で表彰されるほどの腕前を持つ盆栽の手入れが日課だ。だが「野球中心に回っている生活は、何も変わることがない。野球はね、奥深い」と、野球を語る言葉には、自然と熱が込もった。「何年生きられるか分からないけど、(興南監督の)我喜屋さんより長くやりたい。やる場所があれば、野球に携わりたいね」。夢の終わりはまだ見えない。

練習中は厳しいが、練習から離れると笑顔をみせる伊志嶺吉盛監督(右)=八重山商工高

(記事・我喜屋あかね、デザイン・新垣怜奈)