[沖縄6・23物語](1)

牛島貞満さん

部下たちが牛島満司令官の遺体を埋めたとみられる場所に立てた、木柱の墓標。裏側に「昭和二十年六月二十二日」と刻まれている=糸満市摩文仁

牛島貞満さん 部下たちが牛島満司令官の遺体を埋めたとみられる場所に立てた、木柱の墓標。裏側に「昭和二十年六月二十二日」と刻まれている=糸満市摩文仁

 『6月23日待たず 月桃の花散りました』

 海勢頭豊さん(76)が1982年に発表した「月桃」で歌われる6月23日は、沖縄にとって特別な意味を持つ。もともとは1945年の沖縄戦で、沖縄の守備を担った第32軍の牛島満司令官が自決した日とされてきた。県条例で「慰霊の日」と定めている。

 一方、牛島司令官の孫で元小学校教諭の牛島貞満さん(66)=東京=によると、命日は6月20日、22日、23日の三つの説がある。

 20日は、鹿児島県の戸籍に記載。この日付で牛島司令官は中将から大将となった。「特進=戦死」と捉えたのか、台湾の日本語新聞に「20日死亡」という誤報が載った。貞満さんは戸籍の記載は、これを根拠とした「間違い」とみている。

 牛島家は22日を命日とする。司令官の妻で貞満さんの祖母は「22日」と言い続けた。葬儀は月命日の45年10月22日だった。墓標には「6月22日」と記録。部下たちが糸満市摩文仁に立てた木柱にも「22日」と刻まれていた。

 23日説は、自決を目撃した元高級参謀の証言に基づく。「戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦」(防衛庁防衛研修所戦史部著)も、別の元憲兵の話として「23日」を取り上げている。県はこうした説を基に、23日を慰霊の日とした。

 貞満さんは「23日説は聞き取りに基づいている。目撃者には、逆に22日と証言した人もいる。祖母は軍関係者から直接22日と伝えられており、22日が有力」と結論づけている。

 ただ「どちらであっても重要なのは、戦争が終わった日ではないということだ。むしろ『終わりなき戦争の始まり』として覚えることが大切」とも考える。

 第32軍は沖縄戦を、本土決戦を遅らせるための持久戦と位置付けたが、米軍との圧倒的な兵力の差にずるずると後退。5月22日、首里の司令部壕を放棄し、南部地域への撤退を決めた。

 牛島司令官は自決直前の6月19日、「最後マデ敢闘シ悠久ノ大義ニ生クベシ」と軍命を出した。司令官の死後、残存兵は軍民混在の状況でゲリラ戦を継続し、多くの犠牲者が出た。

 沖縄戦の実相を伝えようと、平和教育に取り組む貞満さん。「司令官の死で組織的な戦闘が終わったという解釈は違う。軍命は生き続け、終わりなき戦争は住民を巻き添えにして、かけがえのない命を奪い続けた」と声を落とす。

 6月23日以降も、8月15日以降も命を落とした人がいるという事実を伝える意義を強調しながら、言う。

 「住民一人一人の終戦、平穏を取り戻した日は異なる。司令官の自決日を慰霊の日とすることへの異論は知っているが、沖縄の人たちが6月23日を慰霊の日と決めたなら、犠牲者を追悼し恒久平和を願う日として、とても重要だと思う」

(政経部・福元大輔)

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 沖縄戦から75回目の6月23日を迎える。条例で「慰霊の日」と定めた経緯、国立沖縄戦没者墓苑や平和の礎の建立経緯などを振り返り、この日に糸満市摩文仁で沖縄全戦没者追悼式を開催する意義を考える。