新型コロナウイルス感染症発生後迎えた初の「慰霊の日」。県内各地の慰霊塔や式典会場では、慣れない感染症対策に戸惑いながらも犠牲者に手を合わせ、戦世を思って涙する人々の姿があった。沖縄全戦没者追悼式が開かれた糸満市摩文仁では、曇りから土砂降り、晴れと天候が目まぐるしく変わる一日に。それでも平和の礎に手向けられた花や平御香(ヒラウコー)の多さが、訪れた人の強い思いを物語った。

きょうだい3人の名が刻まれた礎に花を手向ける山城弘さん(左)と強さん。壕で焼死した母の名はまだ刻まれていないという=23日午前、糸満市摩文仁・平和祈念公園

 今も、左腹には銃弾がかすめた跡、左足にもやけど跡が残る。「真っ暗闇で何も見えないなか突然、炎が迫ってきた」。糸満市大里の山城弘さん(79)は、同じガマで身を潜めた亡き母ときょうだい3人の記憶を呼び覚まし、礎に黄色の花を手向けた。傍らに異母きょうだいの強さん(71)がそっと寄り添った。

 弘さんは75年前、戦火を逃れるため市大里のガマに母らと隠れていた。住民を巻き込んだ激しい戦闘が繰り広げられた一帯。米軍からとみられる「戦争は終わる、出てこい」という呼び掛けが聞こえた後しばらくすると、ガマの中に炎が流れ込んできたという。

 糸満市史によると、米兵は当時、大里一帯で投降を呼び掛けても出てこないガマに手りゅう弾やガス弾を投げ込んでいた。当時4歳の弘さんは「とても驚いた、熱かった」。前後の記憶はこれ以上、口にしたがらない。すぐ隣にいたはずの母は「焼かれてしまった」。当時5~7歳の兄武さん、姉ハルさん、トヨさんも死亡した。共に逃げた家族の中で一人、弘さんだけ生き延びた。

 一方で、同時期に真栄平のガマに隠れた祖母やいとこら4人は、米軍の呼び掛けに、下着を破り白旗を作って掲げた機転で命を救われたという。弘さんらと別行動だった父が再婚し、生まれたのが戦後生まれの強さん。2人で毎年欠かさず、礎に手を合わせてきた。「戦争は怖い、それに尽きる」。体験を語るうちに口数が減った兄を気遣うように、強さんはこうつぶやいた。(社会部・篠原知恵)