[沖縄を語る 次代への伝言](57)OTS創業メンバー 宮里政欣さん(91)

「いつの時代も旅ができるということが、平時・平和な時代の証しだ」と強調する宮里政欣氏=那覇市松尾

 「これからは旅行の時代だ」

 1958年10月に誕生した、後に沖縄を代表する旅行社沖縄ツーリスト(OTS)の社屋を前に、胸を張った。社屋は那覇市松尾の「奇跡の1マイル」と言われた国際通りの入り口。沖縄戦で焼け野原となった那覇の街は復興し、にぎわいを取り戻しつつあった。それでも、終戦から13年しか経過しておらず、人々の心の中には、悲惨な記憶が深く刻まれていた。

 創業初期のメンバーの一人。初代社長の東良恒さん(故人)らと「平和になれば、多くの人たちがいろいろな場所へ旅をするはず。戦争で心も体も傷ついた人たちを癒やす役目を担いたい」と決意した。

 1928年、今帰仁村越地に7人きょうだいの長男として生まれ育った。45年、県立第三中学校3年生の時に沖縄戦を経験。北部を防衛する護郷隊の一員として、上陸する米軍の監視役となるも、米兵に見つかり家族と一緒に捕虜となった。一方で、北部の中でも戦闘の激しかった地域では多くの学友が戦死した。「仲間を失う悲しみや喪失感は、今でも言葉には言い表せない」と口をつぐむ。

 47年に沖縄外国語学校(当時)を卒業し、米軍関係者向けのタクシー会社に勤めていたある日、同級生だった東さんから「戦争が終わり時代は変わった。これからは観光が沖縄の主要産業になるはずだ。一緒に働こう」と誘われ旅行社への転職を決意した。沖縄旅行社(当時)での下積みを経て、58年にOTSを創業した。

 戦後の観光産業は、戦没者の関係者らが戦跡を巡り手を合わせる「慰霊旅行」から始まった。OTSも本土からの団体受け入れが主な事業だった。

 復帰以前の沖縄は米軍統治下の「外国」。パスポートの提出や、ビザの取得だけでなく、身元引受人を設けることが義務付けられており、容易に訪沖することができなかった。

 それでも「ぜひ戦跡を巡りたい」と本土から訪沖を希望する声が高まる中、OTSが身元引受人を買って出た。

 慰霊団を受け入れる度に、英語が話せる東さんと何度も米民政府に呼び出され、その都度、頭を下げて受け入れ許可を求めた。「冷戦が本格化し、本土からやってくる『外国人』の受け入れに米軍は神経をとがらせていた。細かく慰霊団の素性を確認されたよ」と振り返る。

 信頼関係を築くために時には、海兵隊が沖縄の地域事情を学ぶ研修のガイドや、アメリカンスクールの修学旅行も請け負っていた。

 「当時の旅行は一生に一度の大きなイベント。沖縄戦で亡くなった家族の終焉(しゅうえん)の地を訪れたいという気持ちは痛いほど理解できた。納得のいく旅を提供しようと、周囲の目も気にせず社員全員が同じ方向を向いて必死に働いたよ」と振り返る。

 戦後75年を迎え、沖縄は国内外から注目を集める人気観光地へと成長した。しかし、昨今の新型コロナウイルスの影響で沖縄から観光客の姿が消える危機的な状況に、改めて平和産業「観光」の尊さを実感した。「いつの時代も、人が自由に、好きな場所へ旅ができるということが、平時・平和な時代の証しだ」と強調する。(仲本大地)

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