「石臼を担ぎ、はだしだった。棒で殴られた痛みを感じた。1週間は熱でうなされたよ」。1944年10月、現名護市汀間区にも戦の足音が近づいていた。区民は我先に汀間田川上流のその奥にある山のアガリマタグヮ(東又小)へ逃げた。玉城芳喜さん(85)は当時9歳。「山でハブにかまれたのは私ぐらいだったのかもしれないね」と足の甲をみせ、当時を語った。

「あの山のもっと奥に避難したアガリマタグヮがあった」と指をさす玉城芳喜さん=名護市汀間

戦時中ハブにかまれ、傷痕が残る足の甲

「あの山のもっと奥に避難したアガリマタグヮがあった」と指をさす玉城芳喜さん=名護市汀間 戦時中ハブにかまれ、傷痕が残る足の甲

 父蒲雄さん(当時49歳)は区長を務めていた。アガリマタグヮに区民のための避難小屋を完成させていた。1944年10月10日の空襲後、区民らはアガリマタグヮを目指した。石臼を担いでいた玉城さんは家族より遅れていた。

 足の甲に激痛を感じたのはその時。すぐに避難小屋へ運ばれ、大人たちがノコギリで甲の皮を剥いで血を出したが、それでも足りず、カミソリでかまれた周囲を刻んだ。「なぜ山に石臼を運ばせたのか、今でも知らない。祖母が山で豆腐でも作るためだったのか」と笑う。咬傷(こうしょう)から運よく1週間で回復を果たした。

 太平洋を見渡す山での避難生活は年を越え、梅雨の頃まで続いた。この間、友軍2機が十数機の敵機に追われ、撃沈する様子も目撃した。

 戦後は久辺郵便局長で定年するまで郵便局に勤め、全逓労組で復帰協の平和運動に力を尽くした玉城さん。「惨めで悲しい歴史は若い人に伝えなければならない。命の尊さと平和の大切さが身に染みている」と述懐した。(玉城学通信員)