住民を巻き込む激しい地上戦が繰り広げられたサイパン島で日本軍の組織的戦闘が終結して7日で76年。6歳だった上地安英さん(82)=沖縄市=は凄惨(せいさん)な記憶と孤児の苦しみを戦後も語れず、当時9歳の兄と2人で抱え続けてきた。日本兵に「戦えぬなら自決せよ」と手りゅう弾を渡された父は「集団自決(強制集団死)」し、その血を全身に浴びた。母と二つ上の兄も失い、弟と妹も収容所で亡くなった。「少しでも話さんと何も残らない」と初めて重い口を開き「怖いんだよ、戦争は。人の心を変える」と静かに語った。

両親ときょうだいの名前が刻まれた「平和の礎」に手を掛ける兄の側で、サイパン島での悲しみを語った上地安英さん(左)=6月23日、糸満市摩文仁

 7人きょうだいの四男としてサイパンで生まれた。パパイア栽培などを営む豊かで穏やかな暮らしが一変したのは空襲が本格化した1944年6月。沖縄に疎開していた祖母と長男を除く、8人で戦火を逃げ惑った。

 砲弾が飛び交う中、北へ北へと逃げ、7月5日にたどり着いたのが、島北部のバナデル。後に多くの住民が身投げする「バンザイクリフ」の近くで誰もいない「きれいな壕」を見つけた。

 そこが日本軍の司令部壕だと分かったのは翌6日。壕に来た数人の日本兵が、米軍に総攻撃を決行する「玉砕命令」が出たこと、中将が自決したことを告げた。最後の軍命を受けるため、日本兵は出払っていた。「兵隊が突撃できるかって聞いたが、おやじはけがだし、誰も行けないさ。戦えないなら自決しなさいって。手りゅう弾を渡しよった」

 徹底された軍国主義下、刷り込まれた米軍への恐怖心から逆らう者はない。夜を待ち、他の住民ら十数人と海辺へ行った。「皆で一緒に死のう」と父は言ったが、「家で死んだほうがいい」と拒んだ母は、兄2人を連れ、その場を離れた。

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 1944年7月6日夜、サイパン島北部にいた当時6歳の上地安英さん(82)は、父たちが目の前で囲んだ手りゅう弾の爆発にぼうぜんと立ち尽くした。全身に浴びた父の血を、葉っぱで拭き取った記憶は鮮明だが、悲しんだ覚えがない。「死を分かっても、怖さも何もない。まひしていた」

 母が2人の兄と「自決」を逃れた後も、上地さんは「訳も分からず」残っていた。死ぬと分かっても逃げようと思わなかった。「僕はおやじっ子だったかも。ずっと一緒だったから」

 肩を組み円になった父たちの間に入ろうとしたが、できなかった。大人6、7人が互いに頭を擦り付け、入る隙間を作らなかった。そのまま父たちは即死。一緒に残された幼い妹2人と乳飲み子の弟も近くにいたが、けがはなかった。

 体中に付いた血を拭き取っていると、母が戻り、変わり果てた父に涙し、羽織をかぶせて手を合わせた。「ここに居てももう駄目だ。家に帰ろう」。隣の兄たちに涙はなかった。「もう皆、心が壊れてたはず」

 父の遺体はそのままに、母は乳飲み子の弟を、兄2人が5歳と2歳の妹を背負い西の海岸線を南下。中心地のガラパン付近を目指したが、アダンの下で眠りから覚めると、母と2つ上の兄がいなかった。

 この日は、日本軍が最後の総攻撃「バンザイ突撃」で壊滅した7月7日。「騒ぎで逃げて巻き込まれたのかも分からない」。残ったのは、1歳から9歳までのきょうだい5人。米軍に保護されたが、送られたススッペ収容所の病院で、5歳の妹と末の弟が亡くなった。

 原因は分からないが、日本の勝利を信じ続けた収容所の日本人に「殺された」との考えが、頭から離れない。「当時、サイパンは負けても日本は負けてないから、足手まといは殺せ、殺せって教員たちが言っていた。病院でもそうだったんじゃないかって思う」

 兄と送られた孤児院は当初、「豚小屋みたいな」劣悪な衛生環境だった。毎日のように幼子が亡くなり、監視し、暴力を振るう大人もいた。数カ月後に改善されたが、兄はその前に孤児院を逃げ出し、親戚をたらい回しにされたと聞いた。

 「戦争が人の心を変え、兄貴が戦後も一番苦しんだ。当時を話せるのは僕と2人のときだけ」と上地さん。戦後75年の今年まで、ほぼ誰にも語らなかったが、「話さないと何も残らない」と取材に応じた。それでも、まだ言えないことはある。「話せないのは苦しいよ。語れないところに真実はある。語り継ごうと思っても、語り継げないことも。これが戦争なんだよ」(社会部・新垣玲央)