[戦後75年]

サイパン島で起きた地上戦の体験を語る島袋定善さん=5日、沖縄市

 南国の島サイパン。1944年6月、米軍が上陸し、住民を巻き込む激しい地上戦が繰り広げられた。米軍が島の占領を宣言し、9日で76年。島で生まれた島袋定善さん(84)=沖縄市=はここで父や弟を亡くし、自身や姉もけがを負った。1カ月以上逃げ惑い、常に死の恐怖と隣り合わせだった。(社会部・光墨祥吾)

 島北部に住んでいた定善さんは8人家族。当時7歳。父は地域の区長で、自宅の庭に壕があった。島民と隠れていたが、敵兵の攻撃が激しくなり、まともな食料もない中、山中を転々と逃げ続けた。

 岩場の隙間に家族と隠れていた時。多くの島民が逃げ込み、定善さんは奥に進めず、積み重なる荷物を頭にかぶって身を隠した。じっとしていると、声が聞こえてきた。「デーテコイ」「キーナサイ」。片言の日本語だった。顔を上げると、銃を持った米兵の姿。誰に話し掛けているのかは分からなかった。

 当時9歳だった姉の伊佐節子さん(86)も岩場にいたが、恐怖でうつむき、当時の様子は覚えていない。この岩場も危険だと感じた島民は近くのサトウキビ畑へ足を急がせた。だが、その畑には赤い火の弾が飛び交った。米兵の銃撃だ。

 家族はばらばらになり、父が3歳の弟をおぶり、定善さん、節子さんと4人で畑を逃げていた。銃撃が落ち着いたころ、節子さんは父に座るよう促された。様子がおかしかった。突然父は横たわり、おぶっていた弟を下ろした。

 父は2回うなり、3回目にかすかに弟の名前を言いながら、節子さんの手を弟の頭に置いた。「おとう、おとう」と声を掛けたが、返事はなかった。すでに息を引き取っていた。節子さんは「『弟をよろしく。後は頼んだよ』と言っているようだった」と振り返る。

 逃げている間、節子さんの左腹には銃弾がかすり、血が流れ出ていた。すぐに敵兵からの治療を受け、捕虜になった。定善さんも背中にけがを負いながら捕虜になり、弟と3人で収容所生活を続け、家族を待った。

 弟は「おかあのとこ、行こう、行こう」といつも泣きじゃくっていた。不安な日々を過ごし、約2カ月後、捕虜になって収容所に母がやって来た。弟は喜び、3日間母から離れなかったが、すぐに栄養失調で亡くなった。

 今年6月23日、定善さんは平和の礎の前にいた。しばらく手を合わせ、「戦争さえなければ」と静かに、そして悔しそうに語った。島であったことを思い出したくないときがある。でも、今もあの情景が夢に出てくる。家族が犠牲になり、引き裂かれた76年前を決して忘れることはない。

(写図説明)サイパン島で起きた地上戦の体験を語る島袋定善さん=5日、沖縄市