「幸福の味 栄養酒 ラッキーワイン」。そんなキャッチコピーの商品を、沖縄県宜野湾市大山にあった酒造所が1950~60年代に製造していた。アルコール度数はワイン並みの15度。ただし、ブドウを発酵させるのではなく、泡盛に香味を加えた甘いリキュール類だった。泡盛リキュールは今でこそ豊富だが、ラッキーワインはその第1号だという。(中部報道部・平島夏実)

宜野湾市立博物館に未開封のまま残るラッキーワイン(一般非公開)

ラッキーワインを製造していた中央醸造化学研究所の工場(1955年、いずれも宜野湾市立博物館提供)

ラッキーワインの広告物

宜野湾市立博物館に未開封のまま残るラッキーワイン(一般非公開) ラッキーワインを製造していた中央醸造化学研究所の工場(1955年、いずれも宜野湾市立博物館提供) ラッキーワインの広告物

 ラッキーワインを製造していたのは中央醸造化学研究所。「乙姫」という銘柄の泡盛も造っていた。創業者・石川栄良さんのおいに当たる石川栄春(しげはる)さん(80)は、高校時代に中央醸造化学研究所でアルバイトをした経験を持つ。

 「工場は甘い匂いがしていてね」。栄春さんが担当したのは、酒瓶を再利用するために洗う仕事。ラッキーワインを詰めたり、王冠を手作業で締めたりする作業は専門の従業員がやっていたという。

 栄春さんの記憶では、ラッキーワインの価格は乙姫より高め。那覇市桜坂の女性ダンサーの間で人気があり、米兵は氷を入れて飲んだ。1号線(現国道58号)沿いにはラッキーワインの大きな看板があり、1955~63年にはラジオ番組「ラッキーアワー」で知られた。

 戦後の酒造りは46年、米国民政府が県内5カ所に官営酒造廠(しょう)を造ったことに始まる。49年には酒造廠の民営化が許可され、79人が操業。石川栄良さんは酒造免許を受けた宜野湾村内3人の1人で、工場は60年代半ばまで稼働したとみられるという。

 県酒造組合連合会(現酒造組合)の資料では、62年時点で106カ所の県内酒造所があったが、カクテル・リキュール類の製造は仲順酒造場(浦添村仲間)のタカラソフトワイン、三光洋酒(同村牧港)のRumsweetなどにとどまる。

 琉球泡盛研究家で沖縄民俗学会会長の萩尾俊章さんは「米国への憧れもあって、50年代後半に泡盛以外も造られるようになった。ラッキーワインのような挑戦は、当時かなり先駆的だった」と話している。