[戦後75年]

家族の写真を持つ宮城幸子さん=名護市為又

父の嘉陽宗厚さん(宮城幸子さん提供)

家族の写真を持つ宮城幸子さん=名護市為又 父の嘉陽宗厚さん(宮城幸子さん提供)

 多くの県民の命を奪い、文化や自然を破壊した沖縄戦から75年。戦争体験者が減っていく中、1943年の米軍による湖南丸撃沈で生後わずか50日で父親を亡くした沖縄県名護市為又の宮城幸子さん(76)は、まだ見ぬ父親の姿を思い「悲惨な戦争を起こしてはならない」と訴えている。

 当時、父嘉陽宗厚さん(33)と母ヨシさん(29)は大阪の紡績工場に勤務し、長女の美津子さん(10)、長男の義一さん(6)、次男の宗弘さん(2)、生まれたばかりだった次女幸子さんの6人家族だった。

 父は会社の任務で工員募集のため沖縄を訪れ、数人の応募者を連れて大阪へ戻る途中だった。12月21日、乗客568人を乗せた湖南丸は鹿児島県口永良部島の西方海上で米軍の魚雷を受けて沈没。救助に当たった伴走の柏丸も魚雷に遭い沈没し、ほとんどの乗客、乗員が犠牲になった。

 4人の幼い子どもを抱えた母親は、44年の10・10空襲など激しさを増す戦況の中、弟2人の支援でやっと生き延び終戦の8月15日を迎えた。

 父親の紹介で大阪の工場へ行くことになり犠牲になった方への思いから、母は大阪にとどまる決意であったが、子どもたちの古里に帰ろうとの説得に「亡くなられた方の家族におわびをして、共に悲惨な思いを乗り越えていこう」と決意し、49年に帰郷した。

 親戚や幸喜集落の人々の心温かい支援もあり故郷での生活が始まった。母親は子どもたちに「人のためにしっかり働きなさい。戦争のない平和な世の中にしなさい」と口癖のように話していたという。

 戦時遭難船舶遺族会の事務局長だった名護市議の大城敬人さん(79)の尽力で、81年に湖南丸の洋上慰霊祭が初めて実現。幸子さんは遺族代表であいさつし「お父さん、幸子だよ。早く顔を出して。会いたい」と涙を流して呼び掛けた。「父親に会った気持ちになりました。関係者に感謝します」と述べた。

 幸子さんは高校卒業後、看護学校に進学し看護師となり、メキシコやボリビアの県民移住者の健康や生活を6年間支援した。29歳で裁判所勤務の宮城章さんと結婚。子ども4人を授かり、9人の孫と11人のひ孫がいる。

 4年前に視覚障がい者の生活支援施設「ロービジョンライフ名護事業所」を立ち上げ、管理責任者として活動している。「命どぅ宝、平和が一番。絶対に戦争を起こしてはならない、起こさせてはならない」と話す。(山城正二通信員)

(写図説明)家族の写真を持つ宮城幸子さん=名護市為又

(写図説明)父の嘉陽宗厚さん(宮城幸子さん提供)