[原爆忌75年 悲憤の記憶 沖縄の被爆者たち](1)新垣和子さん(91) 

「戦後、1度だけ広島を再訪しようとしたことがある」と話す新垣和子さん。足が震え、電車から降りれなかったという=那覇市内

 爆心地から約1・5キロ。新垣和子さん(91)=那覇市久米=はあの夏、広島にいた。約10年後に移ってきた沖縄では、沖縄戦の激しさだけが語られ、原爆の恐ろしさは知られていなかった。母と共にした光景が心に残る中、当時の体験は語らず、胸にしまい込んだ。

 1945年8月5日。疎開していた岡山県から、戦地で負傷した兄を見舞いに母と広島市を訪ねた。当時16歳。病院のすぐ近くにある旅館に泊まった。翌6日朝、1階のトイレから出た時だった。激しい音が響き、地震のような揺れを感じた。旅館の柱は曲がり、2階部分が崩れ落ちた。

 部屋の窓から「光を見た」という母と新垣さんに大きなけがはなく、かすり傷程度で済んだ。だが、旅館の外は「別世界」が広がっていた。

 全身にやけどを負い、皮がめくれて赤黒くなっている人。川は血で赤く染まり、人が浮いている。馬や牛も倒れている。「あまり見ない方がいい。夢に見るよ」。母にそう言われ、遺体をまたぎながら、足を進めた。初めて来た土地。どこに行けばいいか分からなかったが、1時間ほど歩くと、救護拠点の陸軍基地にたどり着いた。

 その基地には、いまも忘れることができない子どもの姿があった。

 「お母ちゃん、お母ちゃん」。ある晩、子どもの泣き声がずっと聞こえていた。目を向けると、5歳くらいの男の子が母を探している。洋服は着ていない。全身にやけどを負い、体はただれていた。皮はほとんど残っていない。目も見えていない様子だった。明らかに重症だったが、歩きながら、母を探し続けていた。「お母ちゃん、返事して」。翌朝、男の子はいなくなっていた。どこに行ったかはわからなかった。

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 8月6日に広島、9日に長崎へ原爆が投下されて75年。県内では被爆者健康手帳の保持者が3月末現在118人となり、証言できる人は減少の一途にある。記憶の継承が課題となる中、それぞれで被爆した「沖縄の被爆者」は戦後をどう生き、今何を思うのか。被爆体験と苦悩の歴史を紡ぐ。(社会部・光墨祥吾)