沖縄の組織的戦闘が終わったとされる6月23日の慰霊の日。戦後75年のことし、沖縄県内のラジオ局とFMヨコハマで、ある鎮魂歌が流れました。三線の音色に琉球音階に合わせた、子どものこんな歌声でした。

<僕の家の隣に住んでる 白髪のオバーの話です>
<オバーは病気で目が見えないから  僕がお使い係です>
<マチヤー小でタバコを買って 駄賃はいつも 50 円>

 作詞、作曲、編曲、歌は、52歳の東外門清順(あがりふかじょう・せいじゅん)さんが手がけました。沖縄で人気の護得久流民謡研究所会長、護得久栄昇先生の曲「たーがしーじゃか」「れもんけーき節」の作詞作曲者です。鎮魂歌「椿油とワンピース」ができた経緯とご自身について、東外門さんに話を聞きました。

「竹馬遊び」1965年、石垣島/(前原基男写真展「あんやたん沖縄写真帖」より)

 

「椿油とワンピース」に秘められた子どもの頃の記憶

<1番の歌詞>
僕の家の隣に住んでる 白髪のオバーの話です 
オバーはたぶん、とってもオバーで コンクリ瓦の家の裏 
狭くてちっちゃい裏座の部屋に  一人ぼっちで住んでるよ 
オバーは病気で目が見えないから  僕がお使い係です
 マチヤー小でタバコを買って 駄賃はいつも 50 円  
 

 僕は石垣島の出身で、小さい頃、近所に住む、目の見えないオバーの買い物の手伝いをしていました。すごい気の強い怖いオバーだったんです。うちの道を隔てた隣に住んでいたので、オバーが僕を呼ぶ声が聞こえるんですよ。僕も「はーい」って返事して。僕が聞こえない時は、母親に「オバーが呼んでるよ」って言われて、たたたっと走って行っていました。

 「タバコを買ってきて」って言われて、いつもカートンでバイオレット(沖縄で流通していたタバコ)を買っていたんですけど、マチヤグヮー(沖縄の商店)に行ったら、「今日バイオレットないからハイトーンでいいんじゃない」って言われて買ってきたら、めちゃくちゃ怒られました。厳しいオバーで怖かったけど、お駄賃50円もらえるし、人助けだから続けていました。

 そんな小さい頃の思い出を歌にしたいという思いがありました。

 タイトルも「椿油とワンピース」ではなくて、「僕とオバーの話」。1番の曲も歌詞もあっという間にできたんですけど、しばらく放っておいていました。

 1番の歌詞を書いてから1年半ほど経ち、2番を書こうと思った時に、〈何でオバーはお目目が見えないの?〉という歌詞のくだりで浮かんだのは母親のことでした。

 母はサイパンで、集団自決で家族全員を亡くしているんです。いつも母は、「お父さんお母さん」と何かあるごとに台所で泣いていました。その思い出とオバーの目が見えないという話がドッキングして、そこから2番の歌詞を書き始めました。

 そして、モデルになったオバーのお葬式に行った記憶が3番の歌詞になり、最後の1行をどうしようかと思った時に、浮かんだのは、おばあの家の情景でした。

 あの頃のオバーの部屋には椿油があって、オバーたちはいつもワンピースを着ていたんですよ。オバーが愛用していたタバコと椿油とワンピースというのは僕の中でセットになっていて、「椿油とワンピース」の言葉を歌詞に入れたらきれいにまとまるなとひらめきました。

 僕が買い物の手伝いをしていたオバーと僕自身のオバーは同世代で、椿油の使い方とか、ハイカラにして外に出る様子とか、あの歌で組み合わさっているんです。そこに僕の母親の戦争体験がミックスされています。

5歳の頃、姉とともに

 この曲を作っている途中で、FECオフィス(沖縄のお笑い芸能事務所)の社長の山城智二さんに聞いてもらったら、智二さんも「似たような経験がある」って言ってくれました。「すごくわかる気がする」って。

 僕自分一人の経験かと思っていたけど、共感してくれる人がいるなら、この曲を作ってもいいんだなって思ったんです。

 歌は、子どもに歌ってもらおうと思っていました。僕の仮歌のミックスをやってくれるKUGANIさんが、子どもの声にソフトを使って変換したんです。聴いてみるとイメージ通りだなって思いました。

 でもやっぱり子どもが歌った方がいいと思ったけど見つからなくて、何とか沖縄の慰霊の日の6月23日に発表したかったので、「いいんじゃない僕の声で」と言ってそのまま世に出しました。