[大嶺政寛と山田實]

 美術ファンによく知られているように、大嶺政寛という画家には二つの顔がある。ひとつは1932年の春陽会美術展(以下、春陽会)への出品を端緒として、戦前戦後にわたり絵画制作に取り組んできた画家としての顔である。もうひとつは45年からニシムイのメンバーと同じように沖縄民政府の美術技官として活動したのち、49年から沖展の運営に尽力し、81年からは新生美術協会を設立し会長に就任した、戦後復興期の開拓者という顔である。

大嶺政寛「龍潭池畔」1943年

◆ありし日伝える

 30年に沖縄県師範学校を卒業した大嶺は、32年に写生旅行で来県した春陽会会員の山崎省三によって出品された、大嶺の作品《大根畑》(15号)が春陽展初入選となる。40年以降になると、日展会員の小磯良平や伊藤清永、また春陽会の川端弥之助、前田藤四郎などが続々と来県し、壺屋や首里、辻原の墓地を沖縄的な画題として求めたが、その案内役が大嶺であった。大嶺が壺屋の陶工・新垣栄三郎宅の庭で絵を描いていると、小磯から「この絵は近景にもっと大きな力強いものをかけば、まとまるよ」と助言を受けた。

 その絵を含む3点が入選、うち1点が第18回春陽会賞に輝いた。43年の《首里・尚家を望む》と《首里》は当時の光景が描かれ、特に《龍潭池畔》からは、ありし日の世持橋や中城御殿の様子がしのばれて私たちの胸を打つ。

大嶺政寛「首里・尚家を望む」1943年

教壇には戻らず

 終戦になり、大嶺は「戦争に、たくさんの教え子を送り出し、そして死なせた。それを思うと二度と教壇に戻る気にはなれかった」と画業に専念する。53年に描いた《中城御殿 正門》と《漏刻門》《瑞泉門》は、大嶺が写真をもとに写生し、古き良き文化の姿を絵画に表したものである。大嶺は中城御殿について、たんに立派な姿というだけではなく「最も大切なことはここにはあらゆる沖縄文化の貴重な文献が蔵せられて」おり、「厚い石垣に囲まれた門は中に蔵された古い文化を守るようにいつも閉されていた」と記している(大嶺政寛「スケッチ手帖から(10)尚家の門」沖縄タイムス夕刊 56年3月23日)。

大嶺政寛「中城御殿 正門」1953年

◆現実を直視する

 

 大嶺政寛の沖縄県立第二中学校の6年後輩に、写真家の山田實がいて美術グループ・樹緑会にも所属していた。

 山田は出征後、シベリア抑留の経験を経て帰郷する。54年頃に写真機店を開業し、自らも写真を撮り始めるが、土門拳のリアリズム写真運動に強く影響を受け、また濱谷浩との出会いをきっかけに、人々の生活や郷土の移り変わる風景を写真に収めた。山田の《ハンタン山 守礼の門復元の頃》(59年)に写る大きなアカギの木は、沖縄戦の惨禍を伝える象徴として知られ、対照的に復元されたばかりの守礼門がある。山田はこの写真にはあるがままの風景を記録し、現実を直視しようとしている。

山田實「ハンタン山 守礼の門復元の頃」1959年

 首里城正殿は、確かにその美しい姿を失ってしまった。焼失による失望と葛藤は、首里城全体と人とのかかわりの中で育まれた文化を見直すきっかけとなった。まさに今だからこそ、何が大切でどう生きればいいのか、その答えが先人の仕事から得られるのかも知れない。