[山田真山・米軍統治下の美術家たち]

 沖縄戦で米軍の猛烈な砲撃を受け、首里城は灰燼(かいじん)に帰した。沖縄の美術家たちは、戦争で失われた首里城の姿を、戦後も描き続けた。どのような絵を描いたのか、時代背景を通し紹介する。

 戦前から中央画壇で活躍していた山田真山(1885~1977年)は、沖縄戦を体験したのち、戦後しばらくは米軍政府の依頼で絵画を制作し、沖縄民政府の美術技官を務めるなどした。真山が描いた「龍潭池より首里城を望む」(1955年)は、琉球王国時代の衣装に身を包んだ人々と、池の向こうに、霞(かすみ)に包まれ、建物の輪郭でのみ表された首里城が描かれている。この作品は、米軍向け英字新聞「THE DAILY Okinawan(デイリー・オキナワン)」に、真山が提供した挿絵のうちのひとつとほぼ同じ構図であることから、挿絵を元に再制作された作品と考えられる。真山が挿絵を提供したデイリー・オキナワン紙の「OKIES(オーキーズ)」というコーナーは、沖縄の歴史や風俗を紹介するもので、米兵が沖縄の歴史や文化に対する認識を深める一助となっていた。

山田真山「龍潭池より首里城を望む」1955年(沖縄県立博物館・美術館蔵)※画像は修復前のもの

◆絵はがきに風物

 1946年に発足した沖縄民政府に文化部芸術課が設置され、美術技官として山田真山や山元恵一、大城皓也、大嶺政寛といった美術家たちが任命された。同年9月軍政府より、11月1日までに2万枚の肉筆クリスマスカードを完成させるようにとの命令が出された。完成するまで他の職務を全て中止し、完成できなければ重要問題が起こるだろうと言うほど、米軍政府にとって重要事業であった。技官だけでは手が足らず、民政府は「うるま新報」(9月27日)に人員募集の記事を掲載した。見出しには「華麗なクリスマスカードで 沖縄郷土色を紹介 軍政府委託で二万枚制作」とあり、クリスマスを祝うカードというより、沖縄の風物を伝える絵はがきとしての意味合いがあったのだろう。

屋部憲「クリスマスカード」1946年ごろか(沖縄県立博物館・美術館蔵)

◆琉球切手の図案

 米軍統治下の沖縄では、独自の郵便切手「琉球切手」が使用され、1948~72年の間に259種類が発行された。その図案の制作や選考には美術家たちが関わっており、沖縄の伝統芸能や民俗行事、工芸品、動植物など、沖縄の歴史、文化、自然が多く描かれていた。1958年に守礼門が再建されると、「オリンピック東京大会沖縄聖火リレー記念切手」(原画・安谷屋正義、1964年)、「第22回全国造形教育研究大会記念切手」(原画・玉那覇正吉、1969年)といった切手に、守礼門が使用された。文化財や建造物としてではなく、沖縄を示す象徴として描かれている点が興味深い。

玉那覇正吉「第22回『第22回全国造形教育研究大会記念切手』原画」1969年(沖縄県立博物館・美術館蔵)

◆「米軍の責任で」

 戦後、米軍は長期的な沖縄統治のため、琉球文化の独自性を強調し、伝統文化や芸能を奨励する政策を行った。美術家たちはそれに利用されたという見方もあるかもしれない。しかし、民政府文化部芸術課長を務めた川平朝申は「戦争において壊滅した沖縄のすべての文化財は施政権者である米軍政長官の責任において復興させ昂揚させることは当然のこと」(「わが半生の記-歴史と民俗と人-」(29)『沖縄春秋』第34号、1978年)と述べている。美術家たちは復興への機運を高めるため、強い意思を持って首里城を描いていたのだろう。