沖縄県立博物館・美術館のコレクションから、多くの画家が繰り返し描いてきたモチーフ(画題)である、首里城を描いた作品の紙上ギャラリーに誘(いざな)いたい。たとえばミケランジェロやダヴィンチなどによるヨーロッパの絵画は、描かれた時代の思想や宗教観を反映したものであるが、ここでは「描かれた首里城」を手がかりに、画家の思いや、作品にまつわるエピソードを紹介しよう。

安谷屋正義「守礼門」1949年

◆復興の願い込め

 終戦間もない沖縄から、大分に疎開していた一人の画家へ電報が届く。画家の名は、名渡山愛順(などやまあいじゅん)。書家であり画家の友人・屋部憲(やぶけん)から送られた「故郷ハ壊滅シタ。キミスグカエレ」という知らせに、名渡山は「ナァケインチ、マッチョケヨ(今帰るから、待っていろよ)」と、思いを口にする。そして1946年、全国的な公募展である日展に《首里の追憶》を出品した。戦争で壊滅的な被害を受けた帰れぬ郷土へ、復興の願いを込めて。
 第2次世界大戦前の1932年から44年まで、名渡山は沖縄県立第二高等女学校で美術教師をしていた。1936年、首里城内に沖縄県教育会付設郷土博物館(沖縄県立博物館・美術館の前身)が設立されると、名渡山は生徒たちに紅型の模写を課題として与え、琉球王国時代の文化に関心を向けさせた。当時の教え子で画家の、久場とよと山元文子は、画家への志が名渡山の指導のおかげであったことと、「夏休みの宿題にも首里城を描くようにいわれた」と、後に語り、中でも久場は、1938年に名渡山が所属する光風会(東京に本部のある美術団体)へ《首里城風景》を出品し、入選を果たしている。それは名渡山の《首里城内瑞泉門》と構図が似、師弟で写生に興じた名渡山の、首里城にたいする思い入れの深さが感ぜられる。
 1939年には、県外から著名な洋画家の斧山萬次郎(おのやままんじろう)が沖縄を旅し、その際のスケッチを基に《守礼門》を描く。斧山は、守礼門扁額(へんがく)の雰囲気など細やかな描写でその姿を捉えていて、さらに樹木を手前に描き足すことで美しさを強調した。

斧山萬次郎「守礼門」1942年

◆ニシムイ拠点に

 1944年から45年にかけて、沖縄では地上戦が激しくなり、かつての王都の様相も大きく変化した。そして戦後間もない1948年、首里儀保町の通称ニシムイ(北森)に、名渡山を含む画家たちがアトリエ兼住居を構えた。なかでも最年少だった安谷屋正義(あだにやまさよし)は、この頃、自身の生活を絵筆にのせて、刻み付けていた。安谷屋は1960年代に白色の下地と繊細な線描を特徴とする抽象画のスタイルを確立、評価される。しかし首里のニシムイに移った頃、安谷屋が首里周辺の風景画に取り組んでいたことは、あまり知られていない。
 1949年、安谷屋は戦争で焼失した《守礼門》を、その再建(1958年)よりも早く描いたが、それは扁額の文字「守禮之邦」までもしっかりと入ったもので、首里城がウチナーンチュにとって何らかの象徴であるという意味まで読み解くことができる。対して同年作の《首里城趾を望む(首里高校の見える風景)》は、首里に住む人々まで描く、安谷屋のヒューマニズムが垣間見える風景画である。この安谷屋作品2点の違いは興味深い。

安谷屋正義「首里城趾を望む(首里高校の見える風景)」1949年

◆文化創造の源泉

 これまで首里城とその周辺を主題にした作品をめぐって、名渡山愛順と斧山萬次郎、安谷屋正義を紹介したが、最後に、京都出身の染色家・皆川泰蔵(みながわたいぞう)の《琉球の春・首里城》をご覧いただきたい。皆川は1966年から中国をはじめ、世界中を旅し創作し続けたが、92年に復元された首里城正殿を、94年に威風堂堂とした姿で表現した。
 いずれの作品からみても、またいつの時代においても、首里城が沖縄文化の創造力の源泉であることは間違いないようである。

名渡山愛順「首里城内瑞泉門」1938年
皆川泰蔵「琉球の春・首里城」1994年