[てい子トゥーシーのユンタクハンタク](79)

東江小学校高学年で陸上部だった頃の筆者。名護湾の砂浜でも練習し、自他共に認めるウーマク(おてんば)だった

 1947年の夏、弟たちと私は母に連れられて辺野古へ行った。そこには母の姉の大家族が住んでいた。

 叔母の家の前は広い白浜があり海産物の豊富な浅瀬の海だった。現在は新基地建設現場に隣接する漁協ビルや船つき場の辺りになっている。当時6歳半の私は朝起きるとはだしで海に走って行き、はまぐりや小魚を捕ってざるに入れて持ち帰り、食事の準備を手伝った。翌年からは夏休みだけ叔母の家で過ごし、学校が始まる前に持てるだけの米を袋に詰めて名護に戻った。

 沖縄戦後、父親のいる家は「エーキンチュヤー」(金持ちの家)で、白いご飯を毎日食べていてうらやましかった。私の家はバナナ、パパイア、びわ、みかん、桑の木などで茂っていた。小学3年のある日、島バナナが45本も収穫できた。房が数多く実った幹を兄がナタでバナナの木から切り取ると、私は門に横付けされた小型トラックにはい上がり、積まれた幹を数え記録した。物々交換もできたのでバナナが米や生活必需品に変わった。

 桑の実はおやつになり、若芽は水を加え手でもむとぬめりが出て、髪のリンスに使った。蚕の餌になる大きな葉はカマス袋にぎっしりと詰め、弟たちと一緒に近くの農業試験場に運んだ。養蚕係の担当者に葉を渡すと換金ができたため、翌日は白いご飯や魚が夕食になった。

 小学生の頃の私は、年中ブルマー姿で森や山を走り回っていた。天真らんまんな性格は中学に入ると図書館にこもる文学少女に変わった。後に小説家のヘミングウェーが書いた「老人と海」を原文の英語で読みたいと思い米国の大学の英文科に進んだ。

 それから25年後の1977年、米国人と結婚した私は夫の退役後、家族と共に米ニュージャージー州に定着した。「ガーデン州」という愛称を持つこの州で、今まで多くの野菜を栽培してきたが、毎年たくましく芽を出すウチナーの島野菜「島菜」は、私には最高の野菜である。

 やはり、庭にいても脳裏に浮かぶのは疎開中の母の姿勢である。特に沖縄戦後は常に書き物をして教育熱心だった。台風で道路が冠水したら、手製の竹馬で登校しなさいと欠席を許さなかった。買えない教科書があれば、先生方から借りて写本してそろえてくれた。貧乏と教育は別問題。それが母の哲学だった。

 私なりに体験した戦争と終戦後の記憶は風化させず、英訳して孫たちに私の歴史の一部として残している。沖縄戦で家は焼かれず、土地も奪われずいかに幸運だったか、名護を離れたらそう実感できた。終戦後、復興へ向けて耐え続けられたのは結局、自給自足ができたからだったのだ。今年のコロナ禍の中のヤーグマイ(家ごもり)でそう再確認できた。(てい子与那覇トゥーシー)

=第4月曜日掲載