沖縄本島や宮古、石垣、奄美大島など広範囲にわたって米軍の猛烈な攻撃を受けた「10・10空襲」からきょうで76年となる。

 激しい空襲は早朝から午後まで波状的に続いた。

 出撃した米軍機は延べ1396機。「晴天の空が曇るくらいの米軍機が空を覆った」と生存者は振り返る。

 総量540トン超の爆弾が日本軍の飛行場や港湾施設にとどまらず民家や学校、病院にまで降り注ぎ、多くの住民の命が奪われた。国内で初めての大規模な無差別爆撃だった。

 那覇の街は、焼夷弾(しょういだん)攻撃で9割が灰じんに帰した。当時の航空写真には、焼け野原が広がる。

 復興を遂げ発展した今の街並みは、激しい空襲を「遠い過去の歴史」のように感じさせる。だが、明らかに今と地続きなのだと私たちに突き付ける出来事が4月にあった。

 沖縄の玄関口、那覇空港内の工事現場で不発弾が3発、相次いで見つかった。いずれも米国製の250キロ爆弾だった。

 那覇空港の元となったのは1933年に造られた旧日本海軍の小禄飛行場だ。沖縄戦では米軍の標的となった。見つかった3発の不発弾は10・10空襲で投下された可能性が高い、と識者はみる。

 発見された場所は第1滑走路の近くだったため、処理されるまでの間、空港の運用に影響が出た。

 76年たっても「戦後処理」は終わっていない。だからこそ当時何があったかを知ることは重要だ。

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 コロナ禍の今年は、沖縄戦を振り返り平和の尊さを考える機会がことごとく奪われている。

 慰霊祭は中止や規模縮小が相次いだ。体験者から直接話を聞くイベントなども多くが見送られた。

 10・10空襲からの復興と平和への願いを込め、万余の力で繰り広げられる那覇大綱挽(ひき)も中止になった。

 沖縄戦の体験者が減り続けただでさえ継承が難しくなる中で、毎年続いてきた行事が例年通りできなくなったことは残念だ。

 ただ、県平和祈念資料館やひめゆり平和祈念資料館などは、コロナ対策を講じながら開館している。ネットでは体験者の証言などさまざまな情報が発信されている。激しい砲撃の弾痕が残る建物跡をはじめ沖縄戦の記憶をとどめる戦争遺跡も各地に残る。

 大勢が一堂に集まるのは厳しいが、コロナ禍でも可能な平和学習の在り方を探りたい。

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 沖縄歴史教育研究会と県高教組が県内の高校生を対象にしたアンケートで、沖縄戦の学びを「とても大切」「大切」と回答した高校生は計95・5%に上った。

 若い世代は学ぶ大切さを理解している。周囲の大人たちは、きっかけづくりやヒントを与えるなどして適切に支えてほしい。

 凄惨(せいさん)な沖縄戦の記憶を学ぶことで、戦争を二度と繰り返さないために今をどう生きるか、その先にどのような未来をつくるかを共に考えたい。