沖縄県の旧那覇市域の9割が焼かれた「10・10空襲」から10日で76年がたつ。旧那覇市に隣接する旧真和志村壺川の自宅にいた宮城光二郎さん(84)の家族8人は、この日を境にバラバラになった。当時8歳だった光二郎さんは、幼い妹と二人きりでヤンバルへ逃げたが、兄2人と姉は市域に残り、その後どこで亡くなったのか分からないままだ。(社会部・勝浦大輔)

(左から)兄の光徹さん、光一さん、姉トヨさんの写真を前に体験を振り返る宮城光二郎さん=7日、那覇市内の自宅

大宜味村喜如嘉で爆撃に遭った際、芭蕉布の葉に突き刺さった砲弾の破片。戦争の恐ろしさを伝えるため、今も保管している

(左から)兄の光徹さん、光一さん、姉トヨさんの写真を前に体験を振り返る宮城光二郎さん=7日、那覇市内の自宅 大宜味村喜如嘉で爆撃に遭った際、芭蕉布の葉に突き刺さった砲弾の破片。戦争の恐ろしさを伝えるため、今も保管している

 1944年10月10日午前7時ごろ、けたたましいサイレンが響く。兄の光一さんと光徹さんが「演習だ」と自宅屋根に上ると、火の海と化した街が目前に広がっていた。すぐにB29爆撃機の砲撃の薬きょうが雨のように降ってきた。

 火の手は自宅付近にまで迫っていてすぐに逃げた。「街も、港では漁船も、何もかもが燃えていた」。楚辺国民学校2年生だった光二郎さんの同級生は宮崎県へ疎開したばかりだった。「あんたは寒がりだから」と母に諭され、沖縄に残った直後の大空襲だった。

 自宅近くを通る軽便鉄道には高齢者と子どもだけが避難のため乗ることができた。父母と生まれたばかりの弟光得さん、兄2人、姉トヨさんは那覇に残り、光二郎さんは4歳の妹信子さんと二人きりで鉄道に乗った。列車には人があふれかえった。鉄道の終着は嘉手納。そこから歩いて大宜味村喜如嘉を目指した。昼は身を隠し、夜に道なき道を行く。「何日かかったか」と振り返る。

 喜如嘉で間借りした家の50メートルほど前に爆弾が落ちたことがあった。一帯に広がる芭蕉が盾となり、砲弾の破片や爆風から身を守れた。芭蕉の葉に突き刺さった破片を抜き取り、今も居間の棚に置いている。長さ20センチほどの細い金属片。ずしりと重い。終戦後に遠目から眺めた那覇は、以前の街並みは見る影もない焼け野原だった。「こんなのが落ちてくるのだから。ひとたまりもない」と破片を手に思い返した。

 父母、弟とは喜如嘉で合流した。兄2人と姉は「お国のため」と那覇に残り、行方知れず。「どこかで生きている」と父母は長い間、帰りを待ったが戻らず、摩文仁で石を拾い骨つぼに収めている。

 光二郎さんは戦後、米軍普天間飛行場、嘉手納基地の「人間の鎖」や県民大会などに参加してきた。子4人、孫10人、ひ孫8人に囲まれて思う。「同じ地獄を子孫に味わわせたくない。平和を守ることは戦争を経験した者の責務ですよ」