戦後76年へ

「10・10空襲」を振り返る喜納ツヨさん=8日

喜納ツヨさんが沖縄戦の終盤で負った、艦砲弾の破片が貫いた右肩の傷痕=6日、糸満市真壁

10・10空襲で米艦載機の爆撃を受けて炎上する旧日本海軍小禄飛行場=1944年10月10日(県公文書館所蔵)

「10・10空襲」を振り返る喜納ツヨさん=8日 喜納ツヨさんが沖縄戦の終盤で負った、艦砲弾の破片が貫いた右肩の傷痕=6日、糸満市真壁 10・10空襲で米艦載機の爆撃を受けて炎上する旧日本海軍小禄飛行場=1944年10月10日(県公文書館所蔵)

 糸満市真壁の喜納ツヨさん(92)は1944年10月10日、旧日本海軍の小禄飛行場(現那覇空港)にいた。米軍の無差別爆撃が各地に甚大な被害を与えた「10・10空襲」の日だ。集中砲火の中を生き延びたが、戦禍が迫る恐怖は76年たつ今も胸に刻まれる。米軍上陸後は日本兵に壕を追い出され、住民を手に掛ける蛮行も目にした。2年前まで家族にも語れなかった沖縄戦。失った親族は一家全滅の3家族含む22人。右肩に残る傷とともに戦への憎しみは消えない。(社会部・新垣玲央)

 6人きょうだい3番目の長女として旧真壁村で生まれ育ち、徴兵された兄2人に代わって体の弱い父の農業を支えた。飛行場に徴用されたのは16歳のころ。週4、5回、炊事や滑走路造りなどの作業に当たった。

 「伏せ! 伏せ!」。空襲の第1波が襲った午前7時前、訳も分からず現場主任の大声に身を縮めた。早朝に家を出て、作業に就いたばかり。地面が揺れ、爆音が次々と鳴り響く。「もう駄目だ」。どこをどう逃げればいいか分からず、逃げ惑う人々の後を追った。

 恐怖で周りも見られず、夜通し歩いて真壁へ逃げ延びた。途中、那覇方面を振り返ると黒い煙と炎が上がっていた。何も考えられず生き延びることに必死。あれから、グラマンの音が聞こえるたびに、震えた。

 南部で陣地構築に駆り出され、艦砲射撃が激しくなった45年3月末から集落北の自然壕に家族や親戚と身を潜めた。日本兵の蛮行を目の当たりにしたのはその頃。屋敷を軍が使うことに抵抗した地元のお年寄りが軍刀で顔を切られた。そのお年寄りがどうなったかは分からない。当時も戦後も誰にも話せなかった。「話せば、どこかに連れて行かれると思って…。今も怖い」

 米軍が上陸し戦火が激しくなる中、日本軍に壕を追い出され、一緒だった親戚はばらばらに。その頃、父が防衛隊に召集された。首里で戦死したと聞くが、今も遺骨は見つからない。壕を追い出され続け、逃げ場を失って父方の屋敷に居た時、艦砲弾が目の前で日本兵を直撃。その破片が自身の右肩を貫いていた。

 約1週間後の6月23日、米軍に保護された。壕から出ると辺り一面は真っ白で緑はなかった。油で消毒した右肩の傷口は、うじが湧き続けた。「思い出したくもない、話したくもない。戦争がどんなに大変なものだったか」

 戦後、多くの親戚、地域の仲間と二度と会えなくなったと知った。基地があれば狙われ、争いを生むこと、軍隊が住民を守らないことを身をもって感じた。

 凄惨(せいさん)な記憶は、沖縄の現状への怒りにもつながる。辺野古新基地建設で親族が眠る糸満の地から土砂が採取されることにも憤る。「基地があれば必ず戦争が来る。足が痛くなければ、辺野古まで行って(新基地建設を)止めたいですよ」