[迷った 考えた 現場からの報告](3)
「沖縄のマスコミは首里城の本当の姿を書かない」。今年1月に始めた連載「首里城 象徴になるまで」の取材のために訪れた与那国島で、前与那国町教育長の崎原用能さん(73)が苦々しく言った。
崎原さんは「琉球処分を、首里の人たちが特権を失った出来事としか書かない。人頭税に苦しめられた宮古、八重山の人たちは、職業と移動の自由を手に入れたんだ」と続けた。
思わず「人頭税のことも書いています」と反論した。崎原さんが、保守色の強い教科書を採用した時の教育長だったことを知っていたので、どんな歴史観を語るのだろうと身構えて始めた取材だった。
崎原さんは、町議会議員だった時に台湾との交流特区に向け奔走した話を聞かせてくれた。実現すれば仕事が生まれ、人が増え、島が活性化する。そう信じた当時の熱気が伝わってきた。
しかし交流特区は、東京からも、そして那覇からも離れた島で、制度の壁にぶつかって実現しなかった。悔しそうに語る崎原さんに、首里王府に重い税を課せられた歴史と、戦後「辺境」となった島の悲哀が重なってみえた。
首里城は地方の人たちが、首里の人々が食べる米や着る布を作り、工事があれば労力を提供したからこそ立っている。頭では分かっているつもりだった。しかし崎原さんの「首里城には怨念を感じる」という言葉を聞いて、ただ人頭税の事実だけを書いて満足していた自分を恥じた。
私たち「沖縄のマスコミ」はヤマトに対して沖縄の立場を主張しているが、沖縄の中ではどうか。那覇中心の価値観を地方に押し付けてはいないか。地方の歴史や人々の心の揺れを丁寧にすくっているか。常に自分に問おうと思った。
昨年10月31日の首里城火災で焼け残った大龍柱は、与那国島産の石(細粒砂岩)でできている。崎原さんは正殿が消えた後にすっくと立っていた大龍柱を、「虐げられた者の強さ」だと象徴的に表現した。
石は島の言葉で「フルイシ」と呼ばれ、乏しい水をためる「イチタライ(石たらい)」の材料として、島の人々の生活を支えてきた。その話を聞いて、大龍柱の石材を「ニービヌフニ」と沖縄島の言葉で呼んできた自分をまた恥じた。「フルイシ」に首里城の陰に生きた人々の歴史の重さを感じ、書いていきたい。(社会部・城間有)