1948年8月6日の「伊江島米軍LCT爆発事件」と、終戦処理の和平交渉に向けて45年8月19日に経由地の伊江島に飛来した「緑十字機」の記録を集めた「沖縄の縮図 伊江島の記録と記憶-パート2」が3日、那覇市民ギャラリーで始まった。市内初開催で、写真約60点や新聞記事などを展示している。LCT事件の犠牲者の痛ましい姿もあり、写真の中の被害者に亡くした父の姿を重ねた主和津(シュワルツ)ジミー(幸地達夫)さん(80)=北谷町=は、癒えない悲しみと苦悩を初めて語った。(社会部・新垣玲央)

企画展に展示された写真を前に、「伊江島米軍LCT爆発事件」で父を失った悲しみを語る主和津ジミー(幸地達夫)さん=3日、那覇市民ギャラリー

■変わり果てた父の姿

 LCT事件は、沖縄戦時の未使用砲弾125トンを積んだ米軍の上陸用舟艇(LCT)が伊江島の港で爆発した米軍最大の事故。住民ら107人が死亡、100人以上が重軽傷を負った。

 ジミーさんは当時7歳。誕生日を3日後に控えていた。友人らと海水浴をしている時だった。港の方から大きな爆発音が聞こえて頭を上げると、城山(伊江島タッチュー)よりも高い黒煙が立ち上っていた。

 発生は午後5時すぎ。戦前は日本政府の通訳として働き、当時は米軍基地で働いた父良一さん(当時35歳)は定期船に乗せた戦没者の遺骨と、船を迎える家族らを米軍のトラックで家まで送り届けるため、港にいた。

 「大変だ」。波止場に向かうと、母が涙を流しながら叔父とリヤカーを引いていた。「どうしたの…」。何の覆いもないリヤカーに、変わり果てた父の姿があった。「頭がなく、手がなくて、足がなかった」

■事件を知ってほしい

 島の子どもたちを集めて相撲を教えるなど、スポーツが好きな父だった。父の死後、当時32歳の母だけでは4人の子を育てられず、次男のジミーさんは父の上司のつながりで米兵の養子として引き取られた。

 企画展で、ジミーさんが目を背けたのは「爆心地270M付近で見つかった身元不明の手」とのキャプションが付いた写真だった。「お父さんの手じゃないかなって、思って」と声を震わせ「見るのも苦しいけど、事件があったことを知ってほしい。この企画には感謝している」と静かに言葉をつないだ。

 同企画展は8日まで。入場無料。7日午後1時からは、パレット市民劇場でシンポジウムも開かれる。