1961年に米軍ジェット機が旧具志川村(現うるま市)川崎に墜落した事故から7日で59年。2人が即死、小学生を含む6人が負傷した大事故を目の当たりにした宮城治全さん(78)は、現在も事故現場の近くに暮らす。今も上空を飛び交う米軍機を見上げ「軍用機が地域住民の上を飛ぶ限り、事故は繰り返すだろう」と危惧する。

事故現場周辺で当時の様子を語る宮城治全さん=4日、うるま市川崎

 12月7日。米軍嘉手納基地を飛び立ったF100Dジェット戦闘機がエンジントラブルを起こし、午後1時40分ごろ川崎周辺に墜落。家屋や畜舎にも大きな被害を出した。

 当時19歳だった宮城さんは、市天願で建物解体のアルバイト作業に精を出していた。事故の一報を受けて慌てて家に戻ったが、周辺は黒煙に包まれて様子が分からない。「家族が巻き込まれたかもしれない」と焦ったが、周囲は米軍が規制して入れなかった。

 「米軍が現場を仕切る状況は今も昔も変わらない」と、宮城さんはため息をつく。当時「自分の家なのに、なぜ入れないのか」ともみ合いになったが、振り切って規制線の中に入った。見守っていた地域住民らが「いいぞ、行け!」と声を上げてくれたという。

 家族は奇跡的に無事で、抱き合って泣いた。だが隣に住む宮城文吉さん(当時26歳)が亡くなった。「真面目な青年で、子どもの頃はよく遊んでくれた。思い出すと胸が詰まる」。

 その2年前に石川・宮森小に墜落した米軍機と同型の機体だったが、残された資料は少なく、飛行ルートや詳しい原因などは分かっていない。

 米軍機は今も騒音をまき散らし、自宅上空を飛び交う。「忘れたいと思うけど、この音を聞くと、どうしても事故のことを思い出してしまう」と表情を曇らせる。当時を知る人も少なくなり、事故の風化を懸念している。体調が悪く、講演活動などはしていないが「語り継いでいくことが大切だと思う」と訴える。

 川崎の事故から56年がたった2017年の同じ日に、宜野湾市の緑ヶ丘保育園に米軍ヘリの部品が落下した。「また起きたのか、と思った。住宅地の上を飛ぶ限り、事故は繰り返すだろう。事故を防ぐには基地をなくすしかない」と声を強めた。

(中部報道部・宮城一彰)