「ひめゆり学徒隊」として沖縄戦に動員され、戦後は語り部として悲惨な体験を伝え続けた津波古ヒサ(つはこ・ひさ)さんが8日午前11時11分、老衰のため、南城市内の特別養護老人ホームで死去した。93歳。那覇市出身。自宅は南風原町宮平。告別式は10日正午から午後0時半、那覇市泉崎2の103の30、サンレー那覇紫雲閣で。喪主は長男嫁悦子さん。

津波古ヒサさん

 1945年3月、沖縄師範学校女子部本科1年の時に「ひめゆり学徒」として沖縄陸軍病院に動員され、第二外科の治療班に配置された。沖縄戦で親族12人を失い、そのうち兄と姉を含む11人は疎開船「対馬丸」に乗船して亡くなった。

 戦後すぐコザ孤児院で子どもたちの世話をした。46年に教職に就き、60年から83年の退職まで障がい児教育に携わった。知的障がい者の就労場所づくりにも尽力した。

 退職後、ひめゆり平和祈念資料館の建設に関わり、89年の開館時から2019年度まで証言員として活動。財団法人県女師・一高女ひめゆり平和祈念財団の評議員なども務めた。

 ひめゆり平和祈念資料館の普天間朝佳館長(61)は「病院壕で青酸カリ入りのミルクが配られ、負傷兵が非人間的に扱われた事実を示す重要な証言もされた方」と悼んだ。犠牲になった家族や学友のために語る使命感を感じた。「しっかり体験を子どもたちに伝えたいとの思いが強かった。私たちも受け取った思いを次の世代に引き継ぎたい」

 前館長で元ひめゆり学徒の島袋淑子さん(92)は「戦後もずっと一緒にいろいろやったが、本当に頑張り屋さん。互いに何でも相談した。もっと話したかった。言葉で言えないぐらい、悲しい」と声を詰まらせた。

 対馬丸記念会の外間邦子常務理事(82)は「誰も気付かないぐらい、そっと記念館に日用品を欠かさず差し入れし、特に慰霊祭に関わる子どもたちには必ず持ってきていた」と振り返った。

 言葉は少ないが、振る舞いから思いの強さを感じたといい、「同じ遺族として頭が下がる。天国で兄や姉からねぎらいの言葉を掛けられているでしょう。それほど尽くした方です」と感謝の言葉を重ねた。