[基地の隣で 普天間第二小 ヘリ窓落下3年](上)

普天間第二小学校の運動場に落下した米軍のCH53Eヘリコプターの窓。周囲には割れた窓の破片が散らばっている(沖縄県宜野湾市提供)

事務室のベランダから放課後の運動場を眺めるミカさん=11月25日、宜野湾市の普天間第二小

普天間第二小学校の運動場に落下した米軍のCH53Eヘリコプターの窓。周囲には割れた窓の破片が散らばっている(沖縄県宜野湾市提供) 事務室のベランダから放課後の運動場を眺めるミカさん=11月25日、宜野湾市の普天間第二小

 体操着の裾を両手でめくると、おなかの部分がポケットのようになる。普天間第二小11期生のミカさん(53)=仮名=は小学1年の頃、そのポケットにお菓子を拾い集めた記憶がある。「先生、見て! こんなにたくさん」。体育の授業前、運動場沿いのフェンスの向こう側から米軍普天間飛行場の兵士が投げてきたお菓子だった。

 先生はミカさんたちを叱り、お菓子を没収。そして、フェンスに赤い旗をくくりつけた。ミカさんは、その気持ちが今なら分かる、と話す。「ようやく復帰したのに、植民地の子みたいに扱われワジワジーしたんだはず。旗は、抗議の意味だったんじゃないかな」

 普天間小の児童数が増え、1969年に分離した普天間第二小。普天間飛行場の滑走路のほぼ延長線上にある。第二小のPTAは80~90年代に何度も早期移転を求めたが、用地の購入費が壁となり実現しなかった経緯がある。

■    ■

 第二小を卒業して約40年後、ミカさんはPTA事務員として同小に戻ってきた。事務室から見える運動場は飛行場と接したままだ。

 3年前の12月13日は暑く、事務室の窓を少し開けていたのを覚えている。

 事務員の1人が「今日のヘリ、音が変よね」と言いだした。彼女は那覇市首里育ち。ミカさんは宜野湾市喜友名育ち。「ちょっとベランダに出てみる」という彼女に、ミカさんは「どうぞ、どうぞ」と応じた。

 「宜野湾で育った人とそうでない人の違いですよね。音が変だからって、ベランダに出るかどうか」

 午前10時8分。同僚がベランダに出た瞬間、ドーンと音がした。風圧を受けた事務室の窓ガラスがガガガガガと鳴る。事務室で悲鳴が上がる中、ミカさんは冷静に指示を出した。校長と教頭に連絡を。運動場の2年生と4年生を校舎の中へ。教育委員会に電話を。自身は110番通報した。

 「訓練じゃないです」と前置きしたのは、同小が毎年1回、ヘリ墜落の想定訓練をしていたからだ。電話を切って時計を見ると、2校時の休み時間まで残り2分。教頭の判断を仰ぎ、児童がパニックにならないようゆっくりした口調で校内放送した。「運動場には出ないようにしてください」

 事故の翌日から、事務室は匿名電話の嵐になった。「子どもを盾にして、日本政府に何するつもりだ」-。人が住んでいないところに基地ができたと信じている人たちからだった。

 事務員たちは着信音が鳴るたびにビクッと体を震わせるようになり、誹謗(ひぼう)中傷に涙した。ミカさんは必死にこらえたが、自宅のベッドに入ると、どうしようもないほど泣いた。

 「基地が問題になると必ず巻き込まれる学校」。それが普天間第二小だとミカさんは言う。事故の7年前、鳩山由紀夫首相(当時)が第二小を訪れ「県外移設断念」を説明した時も、事務室には電話が殺到。電話の向こうの人たちは30分でも40分でも話し続け、ようやく切れるとまた鳴った。勝手に校舎へ入ってくる観光客もいた。

 「何かのきっかけで、また同じ状態になるかもしれない。それが、基地とフェンス1枚で隣り合っているこの学校なんです」

(中部報道部・平島夏実)

◇    ◇

 米軍普天間飛行場所属のCH53E大型輸送ヘリが普天間第二小の運動場に窓(重さ7・7キロ)を落下させてから、13日で3年を迎える。当時の記憶をあらためて掘り起こす。