「おりすじを付ける」「フチとフチをあわせる」-。折り紙の本には、独特の言い回しが多い。市嘉数の伊波盛吉さん(79)は折り図に目を凝らす。説明のほとんどが漢字ではなく平仮名とカタカナで書かれているのも、伊波さんにとっては難しい。元中国残留孤児。養父が亡くなった12歳の時から、家計を任された。40歳でふるさと宜野湾に帰ると、農業、中華料理店のコック、土木作業員と何でもこなした。働きづめだった伊波さんは言う。「ご飯食べる時も、折り紙のこと、考えてる。今、遊んでる」(中部報道部・平島夏実)

伊波盛吉さんと数々の折り紙作品=19日、宜野湾市嘉数の自宅

牛(左)と虎

パンダ(左)と花瓶

伊波盛吉さんが作った首里城

伊波盛吉さんと数々の折り紙作品=19日、宜野湾市嘉数の自宅 牛(左)と虎 パンダ(左)と花瓶 伊波盛吉さんが作った首里城

 伊波さんの自宅には、折り紙の作品が20個以上ある。仕事を引退した3年前、本で折り方の基本を知った。その後は独学で竜、花瓶、さらに首里城と、時には1作品に約100時間かけて仕上げる。

 中国東北部、旧満州での幼少期は折り紙と縁遠く「遊ぶ時も、半分仕事」。板に木製の車輪を付けて「車」を作り、井戸水をくんだバケツを運んだ。

 伊波さんは生後約半年で、両親と旧満州に入植した。父は召集、出兵を命じられた後シベリアに抑留され、母は入植先で死去。伊波さんは中国人の養父母に引き取られ、劉富という名で育った。ある時、学校で「日本鬼子」とからかわれたのを機に、「お前は日本人。私たちの子じゃないよ」と教えられたという。

 伊波さんは養父の死後、纏足(てんそく)であまり歩けない上に病気がちの養母を支えるため、本格的に働きだした。約10キロ離れた商店まで歩いて酒や塩、布を仕入れ、自宅へ運ぶ日々。ふるさとが日本のどこなのか、親がどんな名前なのかも分からず、中国の日本大使館に手紙を書いても、らちが明かなかったと振り返る。

 転機は、厚生省(現厚生労働省)の事業で肉親捜しのために初来日した1982年。約40年ぶりに父と再会し、中国人の妻と宜野湾市嘉数で生活を始めた。日本語やしまくとぅばに戸惑いながらも生計を立て、孫10人に恵まれた今は、帰郷してよかったと思えるようになった。

 伊波さんにとって折り紙は「遊び直し」の時間。「ずっとやってるから、指痛い。でも次、何作るかな。孫に聞いてからね!」