[「防人」の肖像 自衛隊沖縄移駐50年](7) 第1部 対峙 金網の内外 (上)

那覇空軍基地ゲート前で自衛隊配備に抗議する県民大会参加者=1972年10月6日、那覇市

 歓迎セレモニーで受け取った花束が、沖縄県民の抗議よりも色鮮やかな記憶として残った。陸上自衛隊の臨時第1混成群長1佐で当時50歳だった桑江良逢さん(那覇市出身、故人)は、沖縄移駐の初日となった1972年10月4日の印象を回顧録『幾山河』に記している。

 反自衛隊感情に荒ぶる地元。「手をこまねいて傍観するはずがない」。那覇空港に降り立てばすぐ、激しい阻止に遭うはずだと踏んでいた。実際は、なぜか自分たちが通りもしないルート上に百人ほどが陣取るばかりだった。

 「キツネにつままれたような不可解な気持ち」と同居していた安堵(あんど)感は、2日後の6日夜に一転、「終生忘れることのできない日」となるほど緊迫した。県祖国復帰協議会(復帰協)が配備に反対して開いた県民総決起大会に1万2千人(主催者発表)が集結。会場の那覇市・奥武山球場の周辺から駐屯地まで押し寄せてきたのだ。

 沖縄にできた自衛隊基地のフェンスは、沖縄戦、米軍施政といったつらい記憶がある県民同士を隔て、激しくせめぎ合わせ始めた。

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 「自衛隊、帰れ」と叫び、抗議の拳を突き上げる一群に、32歳の中学教諭だった照屋盛行さん(80)=沖縄市=がいた。5歳の時に沖縄戦を経験した。旧日本軍と自衛隊を重ねて「軍隊は住民を守らない。教え子を守りたい」と思いをたぎらせていた。

 対する自衛隊側は100人余りで、警備に当たる警官を足しても700人足らず。10倍以上のデモ隊に乱入されたら手も足も出ない-と基地の明かりを消して2、3時間、シュプレヒコールとともに投げ込まれる石やプラカードなどをやり過ごした。

 「静観するしかなかった。もちろん、いい気はしなかった」。与那原町生まれで22歳の隊員だった新里信夫さん(70)は真っ暗な隊舎の中で息を潜めていた。

 その後も自衛隊を巡る反対運動は続いた。72年暮れまでに、大規模な県民大会はさらに2回あり、民間地への事務所開設や住民登録も拒否されていた。新里さんは今回の取材に「どれも知らなかった」と答えた。

 「反対する思いは分かる。でも、自分にはどうすることもできない」。反発を見ないで済むように避け、退官するまでの32年間を故郷・沖縄で勤め上げた自衛官人生だった。当時の心境を「ずっと柵(基地のフェンス)の中におった」と語りだした。(「防人」の肖像取材班・山城響)

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