3月8日は「国際女性デー」。男性中心の社会に一石を投じ、女性をはじめ誰もが生きやすい社会を目指そうと、各メディアは毎年のようにキャンペーンを展開する。一方、そんなメディアもまだまだ男性中心の業界だ。新聞労連によると2019年4月1日現在、全国38新聞社の女性従業員の割合は19・9%で、女性管理職の割合は7・7%にとどまる。役員となると38社319人中、女性は10人だ。沖縄タイムス社は2月16日現在、女性社員の割合22・8%、うち管理職13・3%。多様性を重んじる社会の実現には何が必要なのか。沖縄タイムス編集局の女性管理職8人が、さまざまな分野で活躍する女性たちを訪ねた。

元沖縄県副知事・東門美津子さん

 行政経験が全くない中、抜てきされた沖縄県の副知事職。県政では2人目の女性副知事となった。退任するや国会議員に担ぎ出され、沖縄初の女性代議士に。さらに初の女性首長と、道を切り開いた。米国留学の後、基地内高校の教師になったのは「英語で身を立てたい」との夢をかなえるため。政治家になるなんて夢にも思っていなかったが、「人づくり」に共通する魅力を感じた。チャンスが巡ってきたら多少背伸びをしても「前へ進む」がモットー。挑戦することで広がる世界がある。現在、沖縄は女性国会議員「空白地」。女性副知事も途絶えてから10年になる。女性と政治・行政の距離は、この四半世紀で縮みましたか。 東門美津子さんに話を聞いた。

副知事当時や沖縄市長時代を振り返る東門美津子さん=12日、沖縄市

■思い切った転身

 ───最初のチャンスは、基地内高校の教師から県の外郭である国際交流財団専務理事への就任。思い切った転身ですね。

 「当時の知事で琉大時代の恩師でもあった大田昌秀先生から話があり、二つ返事で引き受けました。身に付けた英語を使って沖縄を売り込む仕事ができることがうれしかった」

 ───その3年後、51歳の時に副知事就任。部下となる県の幹部はほぼ全員が年上の男性。戸惑いや気負いはなかったですか。

 「財団時代に県女性問題懇話会の座長を務め、女性行政の基本計画となる『デイゴプラン21』の策定に携わりました。そこで知り合った女性リーダーたちがことあるごとに副知事室に集まってくれ、その時々の課題を話し合えたことが力になりました」

 ───東門さんの起用にあたって県議会では「最初に女性ありき。職責にふさわしい人材か疑問」の意見も出ました。女だから下駄を履かせてもらっているとも聞こえる言葉で、今なら問題になっていたでしょうね。

 「女性副知事は差別是正のアファーマティブ・アクションを進める大田知事の公約の一つ。行政経験がなかったので、分からないことは素直に『分かりません。教えてください』の姿勢でやってきました。でも必要以上に肩に力が入ったりすることがなかったのは、私が鈍感だったからかもしれません」

■女性行政が前進

 ───大田知事の業績として基地問題への対応や平和行政の推進が挙げられますが、女性政策の前進も忘れてはなりません。

 「女性政策室の設置、デイゴプランの策定、女性総合センター『てぃるる』の建設。この時期、市町村でも女性参画が促進され、女性行政が大きく前進しました。力があっても機会を与えられない状況もちょっとずつ変わってきました」

 ───ロールモデルがほとんどない中、苦労も多かったと思いますが。

 「一度だけ思わず机を叩いた出来事があります。米軍基地の整理縮小を問う1996年の県民投票。全県挙げて取り組む中、私が県民投票のための女性集会に行こうとすると、職員から『これは吉元副知事の担当ですから』と止められました。確かに所管はそうですが、『女性は県民投票に行かなくていいの』と思わず机を叩いてしまいました」

 ───上原康助氏が社民党を離党した後の衆院選で、同党公認候補として白羽の矢が立ちました。候補打診は副知事退任後すぐのタイミングだったそうですね。

 「副知事時代、女性登用の旗を振ってきました。尻込みする女性たちに『すぐにNOとは言うな』が口癖でした。自分には荷が重いかもしれないという仕事でも、チャンスが来た時は『NOと言うまい』との気持ちでやってきたので」

 ───「女性の声を国政へ」と訴え、女性たちの強力な支援を得て、沖縄初の女性国会議員となりました。

 「子どもが健やかに育つ社会こそが健全な社会、子どもの未来が明るいなら、高齢者の未来も明るいと思い、『本気で教育を』と訴えました。沖縄市長時代、市の未来図の中心に『子ども』を据えたのも、子どもは私たちの宝であり希望でもあると考えたからです」