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沖縄の避難ルートを阻む米軍基地 生きのびるために通らせて 住民の粘り強い交渉の軌跡

2021年3月3日 07:30

[沖縄の防災・共に考える](5)備えてますか ※この記事は2014年5月11日に沖縄タイムス紙面に掲載されました。人物の年齢や説明の内容は掲載当時のものです。

 近年、米軍基地内を避難路として通れるようにするため、沖縄県内でも米軍と協定を結ぶ自治体が出てきた。海と基地に挟まれた低地の住民が逃げ道を模索する姿を紹介しながら、災害時に米軍とどう向き合えばいいのか、共に考えたい。



高台への道を阻む米軍基地のフェンス
キャンプ瑞慶覧を望む宜野湾市の伊佐区自治会

かつてゲートがあった場所を前に「伊佐区から一番近い基地はここ。ゲートを開けてほしい」と訴える宮城奈々子自治会長。フェンスの向こうには道路跡が残る=宜野湾市・キャンプ瑞慶覧(撮影・金城健太)



 海に囲まれた宜野湾市の伊佐区から、30~40メートルも高い米軍施設「キャンプ瑞慶覧」が望める。

 「なんで高台に避難するときに遠回りしなきゃいけないんだろう」
 約4千人が暮らす伊佐区自治会の宮城奈々子会長(61)は米軍基地を見つめ、悔しそうにつぶやいた。

 伊佐区は戦後、米軍による「銃剣とブルドーザー」によって高台を接収され、住民は水田や埋め立て地の海沿いの低地に移り住んだ。高台に向かうには基地の周囲を迂回(うかい)するしかない。津波のリスクは常につきまとった。

 1960年のチリ地震による津波を知る名嘉眞朝徳さん(89)は当時、自宅前の海辺で幼子を抱えて魚捕り中だった。「潮がじょんじょん上がって、真っ黒い波がもっこりもっこりしてくるわけよ」。津波が迫ってくるのが見え、命からがら逃げた。

 2006年に自治会長になった宮城さんは、こうしたお年寄りの話を多く耳にするようになった。避難訓練の実施、津波避難ビルの選定、海抜の調査-、津波への備えを提案するようになった。東日本大震災が起きる前、県内では珍しい動きだった。

 10年2月、最大震度5弱の沖縄本島近海地震が起きた。伊佐区の住民が高台に向かうには、伊佐交差点から県道81号を登るしかない。お年寄りが歩くには長く急な坂だ。結果、車による大渋滞を引き起こした。

 「基地は子どものときから当たり前にあったから深く考えたことはなかった。このとき初めて、邪魔だと思った」

 自治会は基地内に避難道を通すよう市に要請を続け、12年に市と基地が結んだ避難協定につなげた。海抜3メートルの北前ゲートから、海抜61メートルの海軍病院ゲートに抜ける道だ。これまで2度、基地内の避難道を歩く訓練をした。

 次の目標は、伊佐交差点の北にある国道58号沿いの基地ゲート跡地を避難道にすること。高台に向かう最短ルートになるからだ。宮城さんは基地のフェンスを見ながら言った。

 「生きるための選択肢を一つでも、増やしておきたい」(矢島大輔)

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